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2012-04-14 Sat 22:16:35
「望みの変化」の
真髄についての
解説です。
一記事に収めたいところですが、かなり
じっくり時間かけて
教科書的文章に
練り上げており、これが
前編になるかと^^。
明日はまた日帰りスキーp(^^)q「望みの変化」の真髄では
「心が良くなる」ことの
真髄部分として、
「望みの変化」の
真髄、
「魂と命」、
「心の業と病みの捨て去り」について
ざっと説明していきましょう。
それがこれまで説明してきた
「外界現実への向かい方」の
「積み重なり」の
実践的思考と、
前記事で説明した
「現実を生きる」という
根本姿勢が
どう関わって起きるのかなど、
把握できると良いかと思います。
まずは
「望みの変化」の
真髄部分です。
基礎部分は、
「外界現実への向かい方」の
「積み重なり」の中で自分に
「望みを問う」ことを
続けることによって
起きるものであることを、
『望みの変化2』で
説明しました。それは
基本的に
「未熟から成熟へ」の
方向の
変化になるだろうと。
「命の生涯」における「望みの成熟」それに対し、
「望みの変化」の
真髄部分とは、ずばり、
「命の生涯」における
「望みの成熟」です。
「命」というものが
この世に生まれ、文字通り
「命」を尽くしてこの
「現実世界」を生きることで、その
個体が抱く
欲求望みは、
ただ貪欲に「与えられる」ことを求めるという
「未熟」から、やがて
自分の足で立って歩き、
自ら生み出し、
新たな「命」を育てていく中で、
「自ら与えていく」という
「成熟」へと
変化していき、その
全てが
尽くされた時、やがて
もう何も躍起に求めることなく
心は
満たされたものになる中で、その
生涯を
終えていく。
これが
ハイブリッド心理学の
心の思想の、
最大の原点になるものです。その、
「命の生涯」に沿うことなのだ、と。
薄っぺらい「自分」という意識、つまり
「自意識」を
超えて。
「自意識」という「心の業」ただしこれが
大草原を生きる
草食獣や
肉食獣を
念頭にすれば
何となくイメージはできるとしても、
人間においては、その
本性からして
事情はちょっと異なってきてしまうのが
「現実」のようです。
人間はその
本性として、
「心の業」を
抱える存在でもある、という
「現実」において。
「自意識」という心の業を
抱える存在であることにおいてです。
そこで
起きる問題とは、
自分がどう見えるか・・
人に対してであると同時に
自分に対して・・に
躍起になることで、
「命」が望みに向かい現実に向かうという、
「命の生涯」の
本来の姿を、
心の中で
見失うことだと
一言では言えるでしょう。
現代人の一つの姿・・そうして
起きる問題をさらに
外面行動と
内面感情について
一言で言うならば、
外面においては、とかく
内容を欠いた「頑張れば何でも」といった精神論が
絡みやすいものとして、
「努力」という
観念をめぐる、
内実のないままの
「盲信」と
「盲進」、あるいはその
逆の
「反発」「嫌悪」と
「軽蔑」といった
混迷があげられます。その
どちらもが、
人生の時間が
前に進むことなく空回りするようになるものとしてです。
そして
内面においては、
命が望みに向かい現実に向かうということが、
私たち自身の「気持ち」において
一体どのようなものであるのかを、
人生の早期に
見失うことです。
ありのままの感情に
蓋をしたり、
カモフラージュして
別の感情を
人に対し、そして
自分に対して
装ったり、
本来の望みから
遠ざかった別のものへの感情を、
自分の望みであるように
錯覚したりといった、
複雑な心理メカニズムの中でです。
この
2面が結びついた
結果は、
自らを欺いたような、真の望みではないものに向かって、
「努力」への
盲信と
反発の
混迷の中で、
人生というものへの
不明を抱えながら
時だけが過ぎていく・・といった、
現代人の
一つの姿のようなものが見えてきます。
「命の生涯」への回帰の取り組みハイブリッド心理学が
行おうとするのは、そのように
「自意識の業」によって惑う生き方から、
「命の生涯」へと回帰する
取り組みだと言えます。
そのために
重要なポイントを、
上述の
外面と
内面の
問題に
照らし合わせ、これも
一言で言うならば、
外面においては
「目的」をはっきりと意識した「外面現実への向かい方」の論理的思考を、
日常生活で
実践することです。
「目的」に
応じた「答え」が、
「外界現実」に
あるからです。
感情が
反応する
「外面現実」ではなく、その
背後にある現実世界としてです。
そうした思考の
積み重ねが、私たちの
心を、
「現実」という
大地により
しっかりと根を下ろしたものにしていきます。その中で、
「努力」への
内実を欠いた盲信盲進あるいは反発嫌悪を、
「目的」に応じた合理的な行動の仕方へと
変えていくことです。
そのように
「外界現実」にある
答えは、私たちが
どう行動できるか、そして
目的がどう叶えられるかと
同時に、私たちが
どのようには行動できないか
、そして
目的がどうは叶えられないかの
不完全な「現実」をも示すことになります。
それに対して
自分の心がどう感じるのかの、
ありのままの姿に
向き合い続けることです。
自分が
心の底で
一体何を望んでいるのかというのを、
一番重要な視点にしてです。これが
内面の話になります。
「望む気持ち」「望みの感情」を感じ取るそこで
重要になるのは、私たちが
普段感じる
「感情」というのは、私たちが
心に抱く
「望み」を
前提として、今
目の前にある
「外面現実」の
良し悪しへの
反応として
起きるのですが、そのように
普段「感情」を感じる姿勢だけだと、
前提にある自分自身の「望み」を、「感情」「気持ち」として感じることがあまりできないという
事実です。
「外面現実」への
「反応」としての
「感情」では、私たちは
自分自身の
本当の「望み」を、
感じ取りにくいということです。それはまさに、
目の前の
「外面現実」に
流されて、大元の「望み」から遠ざかったものであるように。
これが、
「望み」が
「未熟」であるほど端的に起きます。
「望み」がというより、
心が「未熟」であるほど、というのが
正解かも知れません。
たとえば
ある相手との
関わりにおいて、
反応として
「怒り」が
起きるとします。しかし
その人の
「望み」は、
その相手との
より良い親愛を築くことであるかも知れないし、
逆に
その相手との
関係をなくすことであるかも知れません。
ならば
重要なのは、
その怒りをどう晴らすかではなく、
望みはそのどちらなのかを
明確にすることです。それに応じて、
無駄な衝突を避けながらその望みに向かうための、より良い行動法が
「外界現実」の中に
示されるからです。
そのため、
目の前の
「外面現実」への
反応としての
感情だけではなしに、
自分が
そもそも、
目の前のものとは違うどんな
「外面現実」を
望んでいるのか、あるいは
望んでいたのかを
問う、それに
向き合うという
意識姿勢と
実践が、とても
重要になってきます。
それを、
目の前の
外面現実への
感情においても、
自分でごまかしがちなものから
紐解いていく
実践は、
この心理学において
「感情分析」と呼ぶものになります。
他の取り組みで
「瞑想」「内観」と呼ばれる
作業も、その
本質的目的は
同じようにここにあるのかも知れません。
「望む気持ち」「望みの感情」はそのように、
特別な
姿勢と
意識思考によって
感じ取ることのできる、
「感情」の中でも
別格になるものだだと言えます。
それを
羅針盤にして
導かれる
道のりを次に。
特説・「心が良くなる」とは-22・「望み思考」が「人生を生きる思考」1
2012-04-17 Tue 16:59:30
タイトルに入れていた「その答えxx」は取り外しました。今までの記事も含め。
まあ当初「教科書的短文」を念頭に、せいぜい「その答え5」まで程度にまとめ、次に「罠と轍」という感じでまとめる話の流れを考えていたのですが、結局それどころではない沢山の記事になっている状況^^;
ま言葉がまとまっていくというのはこんなものですね。「変化」というのは「時間」をかけて前進していくという、『真髄を決定づけるもの』で言った話の、これも一つの例です^^。
こうして視点ポイントをまず洗い上げる作業が通り道になるものであり、正真正銘の教科書的短文は今後サイトの充実の方で掲載していこうかとp(^^)q「望み思考」が「人生を生きる思考」さて
前記事では、
「望みの変化」の
真髄は
「命の生涯」における
「望みの成熟」だという
話から始め、
「望む気持ち」「望みの感情」を
感じ取るという
話をしましたが、そのように
「自分の望みを感じ取る」「自分の望みを自覚する」というのが、このあと
望みが
成熟していくことにも
増して、
それ自体において
極めて大きな位置づけになりそうです。
これをちょっと
説明しておこうかと。
それは一言で、
「望み思考」が「人生を生きる思考」になる、というようなこととして。
対照として、
「人生を見失う思考」があるものとして。これは
「善悪思考」です。
『積み重なり3』で、
「目的意識」「目的思考」と
対照になるものとして
指摘しているものですね。
「望み思考」まず
「望み思考」について
再度確認しておきましょう。
一言で、まず
「論理的思考」は
「目的」を
セットにして生まれるものです。
「自分の目的」を
セットにです。
外界現実を
うまく生きるための
思考としてはです。ひいては、
人生を
うまく生きるための
思考としてはです。
冬の屋外で
寒い思いを
しないためには、
どんな服装をすればいいか。
心頭滅却すればいいという
絶対精神力追求思想ではなく、
ごく現実科学的視野に立つならば、
これくらいの寒さに耐えるためには
これくらいの厚みの服を着るといいという
論理的思考ができます。
「防寒機能」についての
科学的思考もできるでしょう。
学校で出された
試験に答える時にも
論理的思考を
もちろん使うでしょうが、
「目的」もへったくれもありません。
問題が
出されたのなら、
答えなければならない。それが
学校。
1たす1は2になるのは、
何かの目的の下にではありませんね。これは
「論理的思考」ではなく、ただの
「論理的知識」です。
学校では、とにかく
論理的知識を
追求しています。
学校でそれを
学ぶ目的は・・と考えた時に、
いい成績を取るため・・では
その目的は・・
いい大学に入り、
いい就職ができるために・・と
「自分の目的」を
追う思考ができれば、それは
「人生を生きるための論理的思考」になってきます。
これこれの大学に入るためには、
これこれの偏差値程度の
成績が必要・・といった
「外界現実」の
知識とも組み合わせた
思考の積み上げになってくるわけです。
ではそれが本当に自分の望みか、と考えると、それが
「望み思考」になります。
もしそれが
本当に自分の望みであり
可能性もあるならば、まずは
それに向かって突っ走るしかない。
それが
自分の望みであったとしても、
自分の今の実力では
極めて難しい・・となれば、まずはその
「望み」を
見直す必要が出てくるでしょう。もっと
ハードルを
低くするか。
それが
自分の本当の望みではないとしたら・・
いい大学に入って
いい就職ができることが、
自分の人生での
本当の望みではないのであれば、そ
もそも学校に通うこと自体を、
見直す可能性が出てきます。
いずれにせよこうして、
「目的」を
セットにして、まず
「生きるための論理思考」が
成立し、
次にその
「目的」というものが、
どれだけ自分の「望み」であるのかを
自分自身に
問い、確認する。
そうして
「自分の望み」を
自分で
把握していることにおいて、
「目的」を
セットにした
論理的思考をしていく。
こうした
思考姿勢が、
「望み思考」とここで呼ぶものです。
自分自身の船主になるまずは
ぜひ、そのような
「望み思考」を、
普段の日常の中で
しているか、
できているかを
確認頂ければ^^。
「目的」を
しっかり意識した
「外界現実への向かい方」の
論理的思考を、
その下で
展開させるものとしてです。
そのように
「目的意識」「目的思考」があり
「望み思考」と
揃って、私たちの
心は
臓器機能の
十全状態になります。それが
揃わない、多臓器不全の
状態ではなく。
それは
人生という
大海原を進む、
自分という
舟の
船主になることです。
それによって、
「自分」の
舵取り、ひいては
「人生」の
舵取りとして、
「思考」が
機能するようになるからです。
自分が
向かいたい大地と、
その前に広がる
大海原の
海図があり、
自分が乗る
船の
装備とその
使い方があり、それを
「外界現実への向かい方」として使うことで、
より揺らぎなく進むことができると同時に、
ふと悪感情に見舞われた時も、
自分で
原因を知り対処を取ることも
可能になります。それは
進む方角を間違えていたのかも知れないし、あるいは
荒れた海域に入ってしまったのかも知れない。そこから
どのように抜け出せばいいのかも、
海図と
装備と
経験の
積み重ねによって
次第に良く分かるようになってきます。
逆にそうした
「目的意識」「目的思考」「望み思考」を
しない思考姿勢とは、
海図も持たず船主でもあれない舟に乗っているかのようです。
自分の
意志で決めた進路に
向かっているのではなく、
いつのまにか進んでいる方向に進んでいるだけ。
悪感情になった時、
自分でもその
理由が分からず、
論理もへったくれもないおまじないのようなものに
頼ろうとし始め、やがて
占い師にマインドコントロールされてしまうような
姿へ^^;
あるいは
「善悪思考」による
生き方があります。それは
他人の海図のままに舟を走らせるという
図です。
自分が
悪感情になっていくとしても、
その海図の通りにうまく進めていないからだとしか思考できないのです。
自分が
その状態にあることに
気づいた時、
「これでは駄目だ」と、
何か「あるべき姿」を基準に自分に駄目出しをする
だけでは、実は
同じ「善悪思考」の繰り返しです。
「評価」「品評」だけに終わる思考も、これと
同じものです。
それを
「望み思考」に
変えるとは、
他人の期待に沿うこと、
他人の目に高く評価されることが、
自分の
「望み」であることを、
自分に問い確認することからです。
世間の目を気にする自分を
変えたければ、まず
世間に良く見られることが
どのように自分の望みなのかに、
向き合うことです。
「気にしなければ」なんていう
誤魔化しだらけの思考を
繰り返すのではなく。
そしてはっきりと
それを目的地にした海図を
探してみるのです。そうしてただ
他人の目に写る自分の姿を
意識するその
気に仕方で、
実際自分が
そのように向上できるのか。そこには、
「心底からは向かえない」「自分に嘘をつく自分が嫌になる」といった
暗礁、もしくは
海の断崖が示されているでしょう。それを
しっかりと見据えるのです。
思考を超えて「命」が「望み」を変化させていくそうして
自分という
舟の
船主になった時、
海図を手に向かう
海路は、時に
かなりの困難、場合によっては
見まごうことなき自分の限界などの
超えられない壁を、
前にするかも知れません。
その時
「じゃこの望みはやめ♪こっちで♪」などと
気安く「変更」できるものは、
本当の「望み」ではありません。それが
できるのは、
始めから
ポーズでしかない望みです。
本当の望みといのは、
そう簡単に変えられるものではありません。
ですからもしそれが
はっきりとこの
「現実」において
叶えられないと
心が
自覚した時、
「心が死ぬ」ということが
場合により
起きるのです。
それでいいのです。その時、
私たち自身の
「思考」を
越えて、「命」が、私たちの
「望み」を、根底から変化させていく、ということが
起き始めるからです。
「心」が
一度死に、新たに「再生」される、という
表現がまさに
当てはまる様子で。
これを
身を持って知った時、私たちの
進む先の
様子が、はっきりと
劇的に
変化してきます。そこには、
今まで見えなかったものが
見えるようになっているのです。
それは
今まで見たものとしての
「外界現実」とも
また別のものです。それは
自分の
「心」の
根底で
生きるものである一方で、
「自分」ではない。それは
今まで見えなかった、「命」というものです。
すると
今度は、
「外界現実」と
「命」の
セットが、
自分の向かう先にある
新たな「外界現実」になってきます。
そうして
目に見えるさまざまなものと、
目に見えないものも次
第に加わっていく
「外界現実」へと、
自分は
向かう存在になっていくのです。それを
進むごとに、
「自分は・・」という
薄っぺらい「自意識」が
薄れていく形で。
「望み思考」の洗練と完成へこのように、
「心が良くなる」とは
「外界現実への向かい方」が良くなることの積み重なりだ、という
この心理学の
考えにおいて、
「目的意識」「目的思考」から
「望み思考」までが、
私たち自身が
意識実践として
行うことの
成立という
位置づけになります。
それはまず、
「外界現実への向かい方」の
「習得向上と自信」という
基礎部分のための、
実践の
実質そのものであることはお分かりかと思います。
その先にある
真髄部分というのは、結局は
この意識姿勢によって
生きる先に、
この意識姿勢を
より洗練させ完成させていくことをめぐって
「自ずと面することになる」とでも言えるような
ことがらになる、という
位置づけなんですね。
「望み思考」までの
思考法の
実践が
できるようになる、というそれだけで
大きな位置づけになることが、何となくお分かりになるのではないかと^^。
「望み思考」を
実践するために
知っておくと良いことを、あと
少し加えてから、
真髄部分の
説明を引き続き続けたいと思います。
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