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島野隆のブログへようこそ!

このブログは、
心の健康人生の輝きを最大限に伸ばすための新しい心理学
「ハイブリッド人生心理学」を分かりやすい言葉で語るブログです。

ハイブリッド心理学があなたを変えるのではありません。
変化への力は、あなたの心の底にある「命」が持っています。
ハイブリッド心理学は、その力を解き放つための導きです。
本当の心の治癒と成長に向かって!
 
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特説・「心が良くなる」とは-7・異次元への高まり1
「外界現実」への向かい方の展開変化

では答え1に引き続き、「情緒レベル感情」から「人生レベル感情」への、「外界現実」への向かい方展開変化を見ていきたいと思います。
これら感情次元についてはその2参照。

まず「身体レベル感情」領域について、答え1で書いたものおさらいしておきましょう。それがベースになります。
この次元では、望む「外面現実」どう得られるか、また得られないかの答えが、「外界現実」の中に全てあります。まずは物理自然現象「現実の法則」として、ということになるでしょう。それを学び理解し、論理的思考で考え、「外界現実」への良い向かい方積極的にできるようになるといい。

「個における情緒レベル感情」領域での「外界現実」への向かい方姿勢も、「身体レベル感情」領域同じです。
望む「外面現実」として、より自分の好み合うものを、まずは自分で探し、その実現方法を学び、考える論理的思考でです。
言えるのは、これについて考えるのを人に頼る姿勢だと、なおさら進めないということでしょう。


異次元への高まり

そこから「関係性おける情緒レベル感情」そして「人生レベル感情」次元が高くなるにつれて、「外界現実への向かい方」も、全く異なる次元のものへ展開変化します。
ハイブリッド心理学が考える、その良い向かい方としてです。

3つの軸によってです。
「姿勢」と、そもそも良い「外面現実」とは何なのかということ、そして「外界現実」にあるものとして視野に入れるべき「現実の法則」です。


姿勢

まず「姿勢」は、上述のベースのものと同じもの、というかそのままのものです。望む「外面現実」得るために、自分で、論理的思考で考えて向かう姿勢です。

その同じ姿勢を、感情の次元が高まる領域でまたそれぞれ持つというよりも、姿勢の確立はベースの領域においてのみあり、そこからどんな連続性において異次元の領域を見れるか問題になります。

つまり、姿勢確立はあくまで日常生活物理自然現象レベル「現実の法則」しっかり論理的に思考できることです。占い師にマインドコントロールされるような羽目になる危険性ゼロとなるよう^^;
どーでもいい話ですがそのニュース(答え1参照)に関連し、TVのワイドニュースで、街で「占いを信じますか」との質問に6割以上の人が「信じる」の方に投票していたのを見たのにはやはり多少仰天女性をアンケート対象にしたものだったかな。

「占い」の手法・・?^^;

話のついで「占い」についての島野の意見なども書いておきますかな。そのニュースに絡め。

某女性タレントと同じく、その占い師同居および多額出費を強いられた女性告白で、そもそもなんでそこまでその占い師のめりこんだのか経緯なども語っていました。
すると最初夫婦でその占い師に見てもらった折、まず旦那さんの方が「これはすごい!」と驚嘆したのが始まりだったと。占い師に、「16年前のあなたのミッションは映画を作ることでした」と言われたと。ピンとこないまま、後日中学生の頃の日記に、「映画を撮りたい」との自分の言葉を発見したというのです。

ただこれは実は誰もがふと夢想しやすいことがら一つなんですね。僕だってそんなこと浮かべたことはある気がする。

そのように、「占い」というのは、誰にでも当てはまりながら意識されなくなっている可能性が高いことがら豊富に持ち、それに人生の生き方洒落たトッピングをすれば成り立つものと、僕としては見ている次第です。その点、多少とも人生経験踏まえた人間がそれをするのであれば、まあ害もあまりなく役に立つ面もあるだろうと。

どこかで聞いた記憶がありますが、「あなたは犬を飼っていますね」とか、神通力で見抜かれたとしか感じられないようなものも、実は観察力が優れていればそれを示す兆候があるのを見ているという話。


その知識を「外界現実への向かい方」に組み込めるか

一方、本当超自然科学的な霊感的能力によって人の過去を分かる人物が、世界にはいるかも知れない。これを否定しません
私自身の科学知識の中の連続性においてです。具体的には「電磁波」作用としてです。霊魂遊離した電磁波の塊として存在し、それを取り込むことで、「前世を知る」というような現象あり得るかも知れない。

しかし、ここで言っているベースの姿勢確立における、「現実の法則」の理解というのは、どこでどんな事がどんな原因でどの程度起きるかという「確からしさ」しっかりと把握するということなのです。
それによって、日常生活の、人間関係の、そして仕事の、問題解決が自分でできるような、矛盾のない一貫した知識の体系というものを、自分なりに持つということです。

ですから、「超能力」一くくりに言われるような能力として、私自身実際にその様子を見れるものであれば、私自身はそれを「信じる」口です。
たとえばTV『志村どうぶつ園』に出てくる「動物と話せる女性ハイジ」本物だと感じます。多分動物の脳の活動電磁波直接感じ取れるのでしょう。その動物それを伝えようとする程度の脳の活動であればの模様。だから、他人の考えることハイジには分かるかと言うと、そうでもない想像しています。とこれは話のついで。

そんな風に「超能力」というものを結構否定しないのですが、そうした知識を私自身の「外界現実への向かい方」の懐に入れられるかというと、それは全くできないわけです。
そんなレアな話に頼っても仕方ない。というか、自分自身がその能力を使えないのであれば、自分の人生を生きるための「現実の法則」の知識にいれても役に立ちようもない^^;


「自分の人生のための思考の体系」を持つ

それが、「自分に対する論理的思考」事前解説読者広場でちょっと書いた、以下のことなのです。
『「立ち位置」から「追加検討」と「フォローアップ」へ』 No.420 2012/01/06)
「自分に対する論理的思考」とは、
「外界現実」「自己の本性」というものを、
「自分自身として誰にどう言われようとも揺らぎなくそれで生きることに満足できる事実」だけによって、
全てがつながり矛盾のないものとして捉え持つ。
そんな思考の体系を、自分の人生のために持つことです。
と。

もしそれが、「前世占いで言われること」自分のそれなのだと、揺らぎない自信と安心感において言えるのであれば、もうそれは人それぞれの自由です。
ただそこで自分自身で占いして、出る答えで常に問題解決できる、という「実践」あっての話になりますね。そもそも人に占ってもらっている段階で、自分ではそもそも「考える」ということ自体ができていないという話にはなるでしょう^^;

まあそんな話として、私の場合「自分の人生のための思考の体系」は、ごく実直な現実科学です。『入門編上巻』主テーマの一角ですね。
科学というのは、究極的に突き詰めると、見えない「へり(縁)」に行き着くものです。「神」もその一つ。それは科学を超えた領域であって、科学からどう分かりようもない。だから頼るわけにも行かない^^; ですから島野「神を信じるか」と聞かれるなら、答え「否定はしないけど、知らない」です^^;


「見えない現実法則」

一方そのように、「自分の人生のための思考の体系」には、自分には分かりようもないことにはどんなことがあるか、への知識思考体系も含みます。

そしてさらに、その「自分には分かりようもないこと」が、自分のこれからの歩み先重要なものと感じた時、当然それは自分の人生の生き方甚大なる影響を与えるものになります。
そうしたものとしてあるものが、この心理学「未知」と呼んでいるものであるわけです。

それをどのように視界に含め、どう向かうかによって、ベースにおいて確立された姿勢が、異次元へと変化していくという話になる。

それが残り2つの軸「そもそも良い外面現実とは」そして視野含めるべき、見えない「現実の法則」とは何かという話になります。
これが2つあります。「関係性における情緒レベル感情」「人生レベル感情」それぞれに対応してです。
その2つ「見えない現実法則」として含み入れるべきものというのは、極めて単純です。言葉単純。しかし誰も、それができていない世の普通の人は。それを無視した行動しかできていない


ここは教科書的短文というより話を膨らませた部分になりましたが、うまくつながったようで残り2つの軸の話を続けましょう。

特説・「心が良くなる」とは |   コメント(0)
特説・「心が良くなる」とは-8・異次元への高まり2
「外界現実への向かい方」の展開変化のまとめ

「外界現実への向かい方」
異次元への展開変化は、前記事で述べたように、
ベースにおける「姿勢」確立の上に、
自分にとって本当に良い「外面現実」は何か見据えること、
それに向かうために含み入れるべき「現実の法則」が、異次元のものへと展開変化するというのものになります。

ここではごく手短に、そのまとめを書いておきましょう。

まず「姿勢」は、自分にとって良い「外面現実」を得るよう、まずは自分で必要な知識を探し、その「確からしさ」について論理的に、できるだけ科学的に考えて「外界現実」に向かうという姿勢です。最初の段階「心を良くする」という意識をすると、逆に心は悪化すること注意しつつ。
ここで「できるだけ科学的に」とする主旨は、「それはなぜそうなのか」という「理由」を、自分の思考において全てつなげられることが重要だということです。そこに「理由」のつながりのないものがあるとは、実は心底では納得しておらず、心はその方向には実は動かない可能性高くなるからです。

その姿勢を、まずは「目に見えるもの」として全ての知識を得やすい、「身体レベル感情」「個における情緒レベル感情」領域確立するといい、ということになります。

次に「関係性における情緒レベル感情」「人生レベル感情」ですが、多少重なるところがありますので説明を加えておきましょう。

「関係性における情緒レベル感情」は、社会との関係における感情として、私たちが実際に持つ出来事場面全般にわたって、どんな関係およびどんな行動を良いものと感じ、向かおうとするかにおける感情です。

「人生レベル感情」は、ここまでの全ての感情領域、つまり「身体レベル感情」「個における情緒レベル感情」「関係性における情緒レベル感情」という全ての領域総合して、どんな内容のものが本当に自分にとって一番価値の高いもの感じ取り人生という長い目でそれに向かうことにおける感情です。


「見えないもの」が加わっていく展開変化

そこでの「外界への向かい方」における展開変化は、「見えるもの」構成されているものから、そこに「見えないもの」加わっていくものだと言えます。
ここでは最も大きなレベルでのそのあり方を書いてみます。


個の領域

「身体レベル感情」「個における情緒レベル感情」からの対比になります。これを「個の領域」と呼びましょう。

まずそこでは、「良い外面現実」とそのための「現実の法則」は、「誰の目にもはっきり見えるもの」としてあります。論理的で、いちおうは科学的知識を取るならばです。
それは、「知って学ぶ」ものになります。

ここにおける「心が良くなる面」とは、自分にとって「良い外面現実」得られるような、「外界現実への向かい方」向上が、もっぱらその実質内容になります。そのもの未知の異次元へと向上変化するというは、ここではあまり出てくるものではななく。

もちろんこの「外界現実への向かい方」向上とは、単に頭で「知る」「分かる」だけではなく、いかにスムーズに、そしてやがては意識する必要もなく自動化するに至るまで「実行できる」ようになることを指します。料理の腕前しかり。島野の場合のスキ-の技術しかり^^。


関係性の領域

「関係性における情緒レベル感情」、つまり社会どんな関係を持ちどんな行動ができるのが「良い現実」か、そのために得るべき「現実の法則」は何か。これを「関係性の領域」と呼びましょう。

これはもう「誰の目にもはっきり見えるもの」ではなく、多少百家繚乱(ひゃっかりょうらん、辞書で出てくるのは「百花繚乱」ですが・・)「考え方」が出てくるものになります。
それでもまず言えるのは、そこでの「良い外面現実」とは、まずは平たく言って無駄な争いを避け、良い関係を維持できること、といった話になるでしょう。
ところがそうした基本的な話からして、そうはなかなかできないのが世の人の常です。「正しければ怒るべき」といった言葉も出てきたりする。

これはつまり、「選択して学ぶ」ものになる、ということです。

ハイブリッド心理学学び全てが、その一つだということになります。
「怒り」の有害性知ることから始まり今までの思考誤りを、大きな山を崩すがごとく捨て新たな思考法行動法学び、それを妨げる未熟心の病み理解し、その先に、内面感情ただ流し開放し、外面においては建設的行動に向かう「感情と思考の分離」実践をする。


「多少は見える現実の法則」

そのために学び得たい、「外界現実」の中にある「現実の法則」とは、以下のようなものです。
これも対比させて列記しましょう。

「個の領域」では、
・物理自然現象についての法則。身体についての法則もこれに含みます。
これがまずは基本になると言えます。
これは、「誰の目にも見える現実の法則」です。

「関係性の領域」
では、
・行動と感情の法則。人に対してこう行動すると人はこう感じるものだ。だからこう行動するのがいい
・社会における「決まりごと」の法則。常識マナーとして暗黙的に存在する、もしくは各種場面明示的に指示説明されるルール。さらには明文化された法律
大きくこの2種類と考えて良いでしょう。

に書いた「関係性の領域」「現実法則」は、そこに書いた順に、「外界現実」の中に次第に「目に見える」ようにはなります。
ただしそこで重要なのは、明示化される「決まりごと」というのも、あくまで見えずらい最初の「行動と感情の法則」基盤にしていることです。もちろん、より多くの人が快い社会を作るためにです。さらにもちろん(?)、そこでの「より多くの人」と言うのは、心が健康で自立した人前提にしてです。

ですから「決まりごと」というのは、特に「常識」「マナー」など多少あいまいな部分もあるものほど、「それはなぜか」の先に、人間としての健全な感情理由考えられることが大切です。そうしたしっかりした理由のない、ただの過去からの遺物のような常識やマナーは、大胆に捨てることも考えたい。ま時と場所によりけりですね。

こうした「関係性の領域」「現実の法則」は、まずは「多少は見える」という性質のものです。それを心得る意志と、健康で自立した心を持てば、ということになるでしょう^^;
に言えば、それを心得る意志を持たない、また心が依存の中にあったり心を病むと、見えなくなってしまうものです。

いずせにせよそれは、心がまっさらな状態で人や社会に向かう時、多少とも見えるものになる。
に言えば、心がよどんだ状態何かあまりにも強い願望や切迫した感情を抱いて向かう時見えなくなってしまう傾向がある。その代わりに見えるのは、自分に対する白い目のイメージ、あるいは期待の中で願う、自分への慈愛の目のイメージだったりするかも知れません。そのどちらもが、「現実」のものではないものとして・・。


「見えない現実の法則」を見据えて向かう

そうして「多少は見える」はずのもの見えなくなった時、当然、それが見えないからと言ってそれを無視した行動をして、「外面現実」良くなるはずもないでしょう。
その時求められるのは、「見えない現実の法則」心に入れて向かうことです。

上に書いたような「多少は見える現実の法則」見えない時、まず見据え向かうべき「見えない現実の法則」になるのはそれらだ、とも言うこともできるでしょう。

またそれを補うための、さらに専門的「現実の法則」知識として、この心理学でも詳しく展開しているような、
・心の治癒と成長と成熟の法則。

に関する知識があるわけです。
幼少期からのこんな流れの中で、感情こんな歪みが起きてしまう。それに巻き込まれることのない思考法行動法独特な視点がある。
そうした「心理メカニズム」「克服への流れ」といったものを学び理解し、それに基づいた思考法行動法「取り組み実践」をする。
その全てが、まずは「関係性の領域」での「多少は見える現実の法則」向かい補うためのものとしてあると言えます。


本当に「見えない現実の法則」へ

そこからさらに、本当に「見えない現実の法則」があります。これを見据えて向かうかどうかで、人の行動が、そして人の人生が、全く違うものになる。
それは心が健康で自立した人においても、それが妨げられた人においても、同等に、「見えない」ものです。だから、これができている人が、世の中ほとんどいないのです。

それは「心の治癒と成長と成熟の法則」関係します。しかしそこでの具体的思考法行動法感情の解きほぐしといった細かいレベルではない、それではもう見えなくなる、とても大きなものとして、見据え向かうべき「見えない現実の法則」を、心に入れて向かう必要がある。
それにふさわしい、大きなレベルの言葉で、心に刻んでです。

それが2つあります。「関係性の領域」と、最後「人生の領域」においてです。


見えない現実の法則1・「成長」

「関係性の領域」にある、「本当に見えない現実の法則」1つ目は、そのテーマ一つの言葉で言うならば、語り尽くされているかのような、ありきたりのものです。
それは「成長」です。

しかしそれを「本当に見えない現実の法則」として心に組み入れるとすれば、このことを意識しなければならない。
それを、こんな言葉心に刻み、見据え、「外界現実」へと向かうのがいいでしょう。

「人は変わることができる。自分は変わることができる」。
と。

どう変わることができるかまだ「未知」のものとしてです。逆にそれが分かるような、つまり予測可能な範囲変化は、今の場面における「行動と感情の法則」によるものだということです。もちろんその中で、良いもの考えて行動します。
しかし人は、それを超えて、変化する可能性を持っているのです。

世の人のほとんどが、今の相手と自分が、そのまま変わらないことを前提とした行動法を取ります。特に「破壊」が、人が変わらないことを決めつける中で行われます。変わらないとすれば、今悪いものがあるなら、それを破壊できることが良いことのように思えてしまうからです。
それは、人が変わることができるという「見えない現実の法則」を、無視した行動なのです。

その見えない法則を心に入れた行動考えるのであれば、マイナス面極力取り上げないことが望ましいのは言うまでもありません。一度取り上げたマイナス面は、得てして一人歩きを始め、取り消すことができなくなりますので。もしそんな行動を取ったことを後悔するのであれば、まずその行動の誤りを、もう取り上げないことです。
こうした指針に立てば、「あの時あんなこと言った!」「この時こんなこと言った!」というような諍(いさか)いの全てが、全く無駄なものとして捨て去られるのは言うまでもありません。


「行動学」の真意

ハイブリッド心理学採用する「行動学」2010-05-18『3つの「行動学」』など参照)は、単に「多少は見える現実の法則」立つだけではなく、この「本当に見えない現実の法則」を、強く考慮に入れて作られたものなのです。もちろんハイブリッド心理学がその始めではなく、人間の歴史を通して、そのようなものとして培われてきた、揺ぎない実績のあるものとしてです。
外面の行動法は、それによって100%構成されるものへと徹底させることに取り組むのが、「取り組み実践」です。

こうして「本当に見えない現実の法則」心に入れて「外界現実」へと向かうことができるようになった時、心そのものが、異次元の世界へと「良くなる」ことの始まりになるのです。
もちろんそれは、それにより「外面現実」が実際飛躍的に良くなるのみではなく、「心そのものを根源とする感情」の類が、異次元へと変化始めるということです。これを次の(次の次か・・)記事で説明しましょう。


引き続き「人生レベル感情」での展開変化まで書いておこうかと思いましたが分けましょう。さらに次元が異なってきますので^^。

特説・「心が良くなる」とは |   コメント(0)
特説・「心が良くなる」とは-9・異次元への高まり3
これも結局一気にとはとてもいかない長さになりました^^ゞ


人生の領域

では引き続き、最後「人生レベル感情」領域における、「外界現実への向かい方」展開変化を見ていきましょう。
これを「人生の領域」と呼んでおきましょう。

ここに至り、「個の領域」および「関係性の領域」とは、次元が異なるものになります。

そうした表現がなんとなく頷けるであろう事実とは、「人生レベルの感情」、少なくともハイブリッド心理学そう捉えている感情そのものが、そもそも感じ取ることが難しいものであることです。

それについて思い浮かぶよもやま話など書いておきますと、『悲しみの彼方への旅』を出版した2006年OB所属のスキークラブの最初の合宿「指導員研修会」に参加する、最も気心の知れたメンバーでの合宿でのこと。
その紹介した折、中でも最も親しい同期同年齢(誕生日も3日だけの違い^^)男子メンバーが、帯裏「僕は今ようやく人生というものが分かった気がする。やっと今になって!」との言葉を見てこんな言葉
「ということは島野(の本名)さんは人生が分かるということか。俺には人生がわかんねー」半分冗談で言ったりしたことでした。今だ(のはず^^;)独身仲間

またTV CMでは女優の長澤まさみ男優2人立ち話しており、長澤「知力とは?」「体力とは?」質問して男優うん蓄を語るというものがあり、そこでさらに「じゃあ人生って何でしょう」に、男優の一人、「まだ人生を語れるほど大きくなってない気がする」、なんてのがありますね。
ハイブリッド心理学からは、その問いには「“望みに向かうこと”です^^」となりますね。


「人生の象徴」を覆すのが「人生レベル感情」

あるいは、「人生」考えるとなると、どんな学歴を得て、どんな会社に入り、何歳まで結婚子供は何人で、家のロ-ン何歳頃までに払い切り、老後の年金は・・といった「皮算用」「人生」あるように(^^;)感じるのがいかにも「普通の人」にありがちのこととして想像できたりします。

まあそれもいいのですが、それはここで言う「人生への感情」向けられるものとしての「人生」というよりは、「人生の象徴物」だと言えます。
この話は『入門編下巻』でも、この表現で書いていますね。“「人生」と「幸福」の「象徴物」を追い求めるのが、人生だという幻想”と。(P.242)

それがここで言う「人生レベル感情」変化する何が起きるかというと、そうして考えていた「人生」(の象徴)というものが、見事にはかなくも崩れ去るような、唯一無二の自分の人生というものを感じる
そんなものとしてあるのが、「人生レベルの感情」だということです。

たとえばの場合、そのあまりの対比が、『悲しみの彼方への旅』最後の方の、「その後の私の前半生」を語る部分に出てきます。ITの仕事天職のようにも感じ、趣味のテニスやスキーにも熱中し、それなりに充実した日々を送るようになった時、私が「人生」に抱いた感覚が、こうだったわけです。(P.328)
 そうした仕事と私生活の中に、自分の人生の全てがあるのだと感じ始めていました。かつて心理学を勉強した自分も、もはや遠い昔の他人のようでした。心理学の本もほとんど全て古本屋に売り払い、心理学の世界に戻ることはあり得ないと考えていました。

こうした言葉を見ると、いまでもじ~んとくるものがあります。なぜじ~んとくるのかと考えるならば、そこには、失われた「魂」と、自分でそのことに気づけないでいる「心」があるからです。この言葉にさらにマジにうるっとくる。(ハハ^^;)
そしてその後に、失われた「魂」を取り戻す、神秘の道が始まったわけです。そのありのままの姿を伝えるのが、自分の残された人生での、神さまに出された宿題なのだ、と意を強くする次第。今ここに書いている「解説」は、そのためのほんの序の口、もとい(←後から思いついて加えたジョーク^^;)序章に過ぎないのだ・・と。(←内部事情?^^;)


「人生の領域」での「外界現実への向かい方」

・・と話がちょっとわき道にそれました(?)が、いずれにせよ「人生レベル感情」とは、定義としては、「個の領域」から「関係性の領域」までを「総合的に包括」するものとして、「何が自分にとって一番価値があるものか」感じ取ることにおける感情だと言えます。
まずはそれが「人生」という観念感覚の下にあるかないかを問わず、それを「人生レベル感情」定義して良いかと思います。「人生」という観念感覚は、それにどのような重みさらに加えるかという側面になると言えるでしょう。

で、そうした「人生の領域」での、「外界現実への向かい方」どのようになると考えればいいか。
が自分にとって一番価値があるもの考えればいいかの、捉え方とは・・。


「人生の領域」の答えは「外界現実」の中にはない

そう考えて出てくるのは、その答えはもう「外界現実」の中には全くない、ということなんですね。
何かあるもの自分にとって一番価値あるもの感じる。それはもうその人個人の心の中の感じ方問題であって、「外界現実」には、それでいいのか良くないのか答えになるものはもう何もないわけです。

2つほど疑問が出てくると思います。

一つは、人がそれによって品評される尺度というものが、社会にはある。「人の目」がその大きな潮流の中にあるものとして。それを無視することはできない、と。
まあたとえば、財力(^^;)、女美貌で評価される。そう感じる方少なくないと思います。の時代、美貌でなければ軽蔑される。自分のように彼女もいない不細工男負け組みなのだ・・。そうした思考の中で社会の人々への憎しみを募らせたのが、秋葉原史上最悪と言われる無差別殺傷事件を起した加藤智大被告であることはご存知かと。『入門編下巻』P.110で取り上げています。「存在の規律」というテーマですね。


「存在の規律」という心の病みの病巣・・

ちなみに・・とまた話が道草しますが、そうした「存在の規律」という感覚心に見えるならば、それが心の病み病巣そのものと考えて正解です。「人はそういう目で見る」と、他人の側に映されたものとして感じる場合もです。

「“映されている”のではなく、“事実”だ」と言う方もおられるでしょう。実際こんな残酷な強圧的な言葉言う人間がいる、と、ネットなり各種メディアからその言葉を引っぱってくることも可能でしょう。
それが“事実”であり“現実”であることを、ここでも認めましょう。たしかにそうした目で他人を見る人々がいます。男はこれが、女はこれが人間を決めると。それが「外界現実」ではないのか・・、という話になるでしょう。


「他人にとっての価値」と「自分にとっての価値」

まず、問題の捉え方単純明快に言えます。

もしそれが純粋に他人の側の感じ方としてあり、自分としてはそうは感じていない事であれば、それは「関係性の領域」問題になります。まあ「行動学」によって対処できるといい、という話になるものとして。
自分として感じているのであれば、「人生の領域」問題になります。これについての向かい方考え方下に述べます。

2つの領域問題分ける必要があるということですね。「向かい方」が全く違ってきますので。

「取り組み実践」まず問題になるのが多いのが、そうして「人はこう見る」という他人の側からの圧力の話としてだけ動揺が語られ、では自分自身はどれだけそうした見方の持ち主でいるのかが、伏せられたままケースです。
これはそのままでは取り組み実践は一歩も前に進まないものになります。「では自分では?」という「自己の重心」回復ひとえに課題になります。


今感じている「一番価値があるもの」への向かい方

そうして「自分としては」これが一番人生で価値があるものに感じる、というものが今すでにあるのであれば、それへの向かい方についても、2つ分けるのが重要になることを言うことができます。

その建設的な側面と、破壊的な側面とにです。

前者は、理想となる目標に向かって、自分を高めていきたいという感情、そしてそのための行動。これは「個の領域」「関係性の領域」での、具体的「外界現実への向かい方」向上として取り組めばいい。

後者は、理想から劣ったものを叩く感情、そしてその行動です。これはまず実際の言動を非行動化する、つまり慎むのが良いのは言うまでもありません。
一方そうした衝動、感情どう扱えばいいのか。小手先で無理に消そうとしたり、直そうと意識努力の手を加えることが、のあることであるのはもう何度も指摘していることです。それをすると心が病む、つまり歪んだ形でくすぶることになると。
これは「競争心」「てなづけ」として12/28『いざない5・人生の鬼門4』に書きましたね。「競争心」健康に開放した方がいい。その上に、「“自分”を超えた高み」目線移すのがいい、と。

それでいつのまにか自然「破壊的な側面」消えれば、それに越したことはありません。しかしそう自然には消えない可能性も高い。
するとそれははっきりと、心の業捨て去り課題になるということです。その基本的な考え方この後の記事で説明します。

いずれにせよこれが、「すでに感じている」ものとしての、一番価値があるもの感じるものへの向かい方大枠になります。


参考となる「人生の事例」

問題は、そうして私たちが「すでに感じている」ものとしての「人生レベル感情」が、実に未熟なものであったり、あるいは上述のように本当の「人生への感情」ではなく「人生の象徴物」への感情だったりするのを、どう自分方向づけていくのがいいか。そのための「外界現実への向かい方」は、という話になります。

そこで2つ目疑問になると思います。「外界現実に答えはない」というハイブリッド心理学からの答えへの疑問

人の人生の姿が、「外界現実」の中に示されている。それがそのまま「答え」ではないとして、少なくともかなりの「参考」となり、そうした「参考」見る先に、自分の人生というものが見えてくるのではないか。
実際もよく「人生の事例」「人間の事例」沢山見るように、としばしばアドバイスします。

一言でいえば、それらは答え構成する情報ではなく、問い構成する情報だということです。
人の人生にはこうしたものがあれば、こんなものもある。では自分では?と。

そこではもちろん、偏らない、できるだけ沢山の「人生の事例」「人間の事例」を見ることが望ましい。これは、それによって「自分に問うことができるようになる」ための「外界現実への向かい方」だということになります。


「問う」という向かい方

ですから、基本的な向かい方姿勢を、こう一言でいえることになります。

「個の領域」は、「知って学ぶ」という向かい方
「関係性の領域」は、「選択して学ぶ」という向かい方
「人生の領域」は、「問う」という向かい方。もちろん、「自分に」です。


「人生の領域」における「外面現実」とは実は「内面の現実」

そのようなものとして、「人生の領域」答えになるものが「外界現実」どのようにあるのかを考えるならば、言えるのはこうなんですね。

「人生」のレベルにおいて、「その良し悪しによって心が感情の良し悪しの反応を起こすような目に見える外面の様子」であるところの「外面現実」とは、実は「外界現実」ではなく、「内面の現実」だということです。

「関係性の領域」には、「外界現実」に、まだその「答え」が多少ともあります。平たく言って、無駄な争いをせず良い関係を維持できること。その良い形「外界現実」にあり、そのために心得るべき「行動と感情の法則」などがある。

「人生の領域」では、そのような答えが、「外界現実」には、もう全くない形になります。

それはなぜか、ここで使っている言葉で言うならば、「身体レベル感情」から次第に展開していく「個人的嗜好性」が、「人生の領域」にいたり、「唯一無二性」になるからだ、と。
唯一無二だから、他に答えを示すものなくなるわけです。自分自身の心以外には。


見えない現実の法則2・「命」

ただし一個だけ「外界現実」の中に、「人生の領域」への答え決定づけるものがあります。「見えない法則」としてです。

そのテーマ「命」です。それを見据えるために、懐に入れるのが良い言葉はこうなります。

「時間には限りがある」。
です。
もちろん「人生の時間」に、です。

この言葉は、スピリチュアリズムなどで強調されるのを良く見かけますね。このブログでも触れた「真我開発講座」「心の学校」ビデオなど以前見た時、主催者田久保さんがこんな言葉を語っていましたが、好きな言葉です。
「いつかこの世におさらばすることを意識した時、時間が命になります」とかの言葉

それが人生における願望どんな影響を及ぼすかは、ここであまり詳しい考察を書く場ではありません。それでも、「人生の象徴物」が「人生」そのもののように感じ、追い求める衝動は、そのはかなさ目が覚まされる形で、より本当の「人生」を見ようとする目が生まれる可能性があると言えるでしょう。

いずれにせよその先に、この心理学においても目指すスピリチュアリスム哲学宗教同じゴールとなる山の頂「命」が見えてくるという流れです。
しかし登山ルート大分違う。それはハイブリッド心理学の場合の歩みが、こうして見てきた「外界現実への向かい方」の、積み重なりとしてあるというにあります。


そこに、今回の「いざない説明」における「扉」となる「現実を見る目」、そしてそれをとして歩むための「自分への論理的思考」意義がある、という説明をしようとしているという、時間食っている段取りです^^ゞ

ともかく、その「積み重なり」ポイントなど、次に説明しましょう。「変われない人」決定的ポイントなどがそこにあると思いますので^^。
そして「心が良くなる」とはどういうことかの、これがまだ準備段階の話です^^; こうして「外界現実への向かい方」整うことで、「心を根源とする感情」の、根本的な変化が、始まるという話になります。それもこのあと続けます^^。

特説・「心が良くなる」とは |   コメント(0)
特説・「心が良くなる」とは-10・積み重なり1
決定的に重要な「積み重なり」

さて「個の領域」から「関係性の領域」そして「人生の領域」へと、「外界現実への向かい方」展開変化を見てきました。

そこでは、「積み重なり」というものが、決定的に重要になります。

2つの側面においてです。
一つは、全般的な話です。「確かさの積み重なり」によって築くのが「自分への論理的思考」です。
もう一つは、その3つの領域そのものが、積み重なりで成り立つということです。ハイブリッド心理学が考える「外界現実への向かい方」としてです。
「変われない人」決定的な原因一つが、その2つ目の方にあると思われますので説明していきましょう。

なお「変われない原因」というのは、さまざま話のレベルごとに幾つかの視点を言えるものになります。
歩み全体においては、「自分で論理的に考えることができない」という入り口での問題「“開放”ができない」といった通過関門問題
今回「いざない説明」においては、「歩みへの扉」となる、「現実を見る目」持っていない。これはこの後説明します。

そしてその前段説明としてのこの「心が良くなる仕組み」においては、「外界現実への向かい方」の中に、「変われない人」にとっての決定的なネックになっていると思われる部分2つ出てきます。
そのうちの一つここで説明します。もう一つは、「欲求・望みの変化」のところで説明します。


「確かさ」の積み重なり

「外界現実への向かい方」展開「積み重なり」であることが決定的に重要な、1つ目の側面
これは全般的に言えることで、しっかりとした「確かさ」の積み重なりとして構成されることが、決定的に重要です。

それはやはり、「それはなぜか?」という「理由」論理的にもしっかりつながりつながる「理由」全てが、現実においてしっかりと確かめられた、あるいは確かめられる事実の積み重なりであることが、決定的に重要だということです。

なぜなら「それはなぜか?」という「理由」どこかに不確かなものがあった時、積み重なりとしてその後の話の全てが、不確かなものになってしまうからです。
そうして不確かな思考によって生きている生き方というのは、ちょっとでも思惑通りでないものに出会うと、全てが崩れ去ってしまいます。
ちょっとでもうまく行かないこと出会うたびに、生き方の全てを、いつまでもゼロからやり直さなくてはならない羽目になります。それをいつまでも続けてしまうのです。


「惑い」から「自信」への「心そのものの変化」

そうではなく、論理的にもしっかり「理由」つながり、その基礎の知識から応用の知識まで、全てにおいてしっかりと確かめられた知識生きるための思考築きあげた時、それは当然全く揺ぎないものになります。

それによって、「惑い」「不安」「無力感」といった感情が、「安心」「自信」「強さ」といった感情に、変わっていくのです。あとでまた総括しますが、これが「心そのものを源泉とした感情」(参照:2/29『心そのものを根源とする感情』)の根本変化の、最初の側面になると言えます。


自分の「外界現実への向かい方」に組み入れる知識を選ぶ

このために、博学である必要全くありません自分が生きる上必要になる、あるいは役立つ使える知識だけを、ただしそれについては揺らぎない「確からしさ」と、それまでの知識との「つながり」において、自分の「外界現実への向かい方」に組み入れることができればいいのです。

むしろ、不確かな知識や、自分では使いこなしようもない情報に、なびかないことがまずは基本と言えるでしょう。
私たちが生きていく上で本当に確かなことなど、実に僅かなのです。になればが上る。が降れば気温は下がる。飲むことのできる水はどこにある。そうした確かなことだけを、自分の「外界現実への向かい方」の中で有効とすることです。


「知っているふり」「分かっているふり」との決別

それは同時に、「こんなことも知らないのか」「こんなことも分からないのか」といった他人の言葉で、「知っているふり」「分かっているふり」をしようとする衝動に、決別を告げる必要があるということでもあります。
そもそもそうした言葉は、相手をマインドコントロールしようとする時に使う、常套手段です。「馬鹿にされたくない」という内面の劣等感(?)刺激することで、自分の言うこと相手がカモのように(^^;)食いついてくることを狙っているのです。

その点、「馬鹿にされたくない」という言葉を、相談の中で聞いたことが時にありますが、それは少しおかしな言葉でもあります。
言葉がちょっと悪いですが、馬鹿にされたくないとして、実際馬鹿なのか?(^^;)という問いが、実のところ意味がある問いになります。そもそも馬鹿とはどういうことか、という根本的な問い浮き彫りにするために、と言えるでしょう。


「頭の良さ」ではなく「賢さ」を目指す

その言葉の先に見えてくるのは、「バーカ、バーカ」近所の悪ガキいじめられた時心細さと、学校のテスト良い点を取った時褒めてくれた親といったものかも知れません。

しかしそれが良くも悪くも重みを持つのは、子供の心です。大人にとって・・というか自分の足で立って歩く、命あるものにとって重要なのは、そうした「頭の良さ」ではなく「賢さ」なのです。
「賢さ」とは、自分が必要とするものをまず自分で知るということです。それを知らないのを「愚かさ」と言います。
かくして、高度に脳を発達させた人間「愚かさ」の中にあり、脳の発達程度の遥かに低い小動物などの方がはるかに「賢い」という事態も起きてきます。

「馬鹿にされたくない」という言葉が出た時、そこにある本当の問題とは何なのか。実際人に馬鹿にされて何か不利益が生じる危険があるという、現実問題があるのか。事実であり、馬鹿にされない代償として相手の術中にはまることが多いでしょう。
それとも本当の問題は、「頭の良さ」「賢さ」違いが分からない、子供の心のままでいることにあるのか。

「頭の良さ」ではなく、「賢さ」を目指すことです。「馬鹿」で結構。しかし「愚か」ではいないことです。


島野の場合・・

・・と例により話が膨らみましたが、全般的「積み重なり」という側面について、具体的な例など書いておきましょう。

手前味噌ですが、私自身を言えば、51歳の今に至り、人生あらゆる「疑問」「不明」そして「惑い」ほぼゼロになり、揺らぎない自分と、あらゆる「悪感情」ゼロの状態をよく長く持つようになったことを感じています。
それも全てもの心ついた時からの、全て積み重なりが、そこに至ったということです。内面感情の変遷という長い道のりもその一面にはあるとして、私自身の「外界現実への向かい方」に組み入れた知識体系の完成というものもです。ま「完成」というか、「自己充足」と言うのが正解かも知れませんね。

例えば私は「超能力」言われるもの存在案外認める口だという話を『異次元への高まり1』で書いたりしましたが、そうした思考も、小学校から「学校」というものに何年も通って習った知識からもつながる、積み重なりとしてあるわけです。
「電気」というものの、さまざまな働きがあること。
それが「電磁波」というものを生み出しもすること。
「電磁波」遊離した塊のような形でも存在し得ること。
「電磁波」直接感じ取ることで、超常的体験起きること(各種実験あり)。
そうして、「動物と話せる女性ハイジ」ホンモノだと思うし、「前世」なんてのも、自分の前世というより他人の記憶を、遊離した電磁波塊として直接取り込むことで起きるかも知れないとも考える。まつまりは「霊魂」というものが、人体から遊離した電磁波塊として存在するかも知れない、なんてことも考えるわけです。

だからと言って「心霊写真」なんてぜんぜん信じないし、生活の中幽霊に出会うことなどもてんで考えない。それは写真加工どうにでもできる技術の方を「確かなこと」として知っているし、物質世界これこれのことが起きるにはこれくらいの「電圧」が必要といった知識の方を「確かなこと」として採用し、霊魂が存在したところで何が起きるわけでもないと考えるからです。
霊魂が存在したところで、自分には分からないし(霊感まるでなし^^;)使いようもない(^^;)ので、私の「外界現実への向かい方」に、「霊」の情報全く組み入れておらず至っている次第です。それでぜんぜん問題なし^^


「自分への論理的思考」の目的

まそんな話を一例として、「外界現実への向かい方」として使う知識を選ぶのが、『異次元への高まり1』読者広場での事前解説に触れましたが、「自分への論理的思考」取り組みだということです。

ここでまたその定義を書いてみるならば、
「自分自身としてそれで生きることに満足できる確かなこととして、全てが矛盾なくつながる思考の体系を築くこと」
といったものになりますね。

それによって、まず自分なりの「外界現実への向かい方」築く。これが第1の目的と言えます。

そしてそれに足場にして、「内面の開放」「心の業の捨て去り」へと向かうのですが、これは「外界現実への向かい方」によって得る心の成長対比させて考えるという作業が、やはり論理的思考でないとできないものになります。
これが「自分への論理的思考」第2の目的となる部分で、この「心が良くなるとは」解説の中でも大よその考え方この後書いていきます。


いったんアップし、「積み重なり」もう一つの側面を次に。
「個の領域」から「関係性の領域」そして「人生の領域」という展開そのものが、その3段積み重なりだという話です。
「変われない人」決定的ネック一つの話もそこで^^。

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特説・「心が良くなる」とは-11・積み重なり2
この記事は一度アップ寸前PCがフリーズし、起動し直したら中身が全部消えてしまうというトラブルを経ました@_@;; う~んバックアップ手法ちょっと向上させねば@_@;;

なおこの『特説・「心が良くなる」とは』カテゴリー化しました。『詳説・実践のポイント』サブカテゴリーという形で。
こうした
カテゴリーからのより便利な記事参照方法を用意できるかどうか、今後検討していきたいと思います^^。


3領域の3段で積み重なっていく「外界現実への向かい方」

ということで(^^;)手短続きを書きますと、「個の領域」「関係性の領域」「人生の領域」という「外界現実への向かい方」展開において「積み重なり」であることが決定的に重要になる、2つ目側面の話になります。

1つ目の側面は、全般的な話で、「確かさの積み重なり」であることでした。(前記事
小学校から始まり、何年も「学校」というものに通って確かなものとした知識からも、しっかりつながるものであることが重要そうでないものは、そもそも論理的思考など無縁に、「きっとそうだ」という感情の針が振れただけの思考である可能性高い。そのように感情に流れた思考では、正しい答えを納得理解し、それに沿って自分を変えていくということが基本的にできない、という話になるかと。

2つ目の側面は、「外界現実への向かい方」というものが、その3つの領域3段によって積み重なっていくものであることです。


料理のように・・

これは例えるならば、作り方のように。まず「個の領域」という基礎土台があり、次に「関係性の領域」という支柱があり、「人生の領域」という内装外装がある。
そこで、前提となるものをしっかり作らないまま、次のものをいくら豪華に作ろうとしたところで、容易に崩れ去ってしまう。基礎土台がないままいくら豪華な家を作ろうとしたところで、それはちょっとした地震ちょっとした強い風だけで、脆くも崩れてしまうであろうように。

いやその例えはまだ少し違うのです。そこでは基礎土台支柱内装外装と、3段階のそれぞれで、それぞれ別のものとして作りこむものがあります。あとの方のものほど手間をかけるものとして。

よりぴったりと合う例えは、料理です。
具材が、「個の領域」です。「関係性の領域」は、調味料という、具材に添えて料理としてまとめるものです。
「人生の領域」は、レシピです。これは料理そのものではなく、その作り方についての人それぞれの工夫のあり方です。

自分という具材がなければ、料理はできません。自分という具材を、良く知ることです。調味料使い方はどんな料理でもだいたい同じものですが、具材によって合う合わないがあります。そうしておおよそ自分という具材をもとにした料理の可能性が分かったところで、いよいよ、自分なりの最高のレシピを練っていくのです。


前の領域の積み重ね方として次の領域がある

そんなものとして、「個の領域」から「関係性の領域」そして「人生の領域」での「外界現実への向かい方」展開とは、

「前の領域の積み重ね方として次の領域がある」。

とも表現できるものになります。
まず「個の領域」から始め、それをどう広げるかとして「関係性の領域」があり、まずは人それぞれ・・ではなく誰でも誰にでも普遍的に応用することのできる行動法習得してから、最後に、自分なりそこから一番勝価値のあるもの軌道づけていくのが、「人生の領域」です。

この点、誤った姿勢としてありがちなのは、前の領域への「不明」を抱えたまま、次の領域を考えようとするものです。
自分というものを良く知らないまま、人との良い関係を考える。これは自分を見失ったまま人との関係を焦り、動揺に振り回されることに、まずなってしまいます。
生きるとの空しさを前に、「人生とは一体・・?」なんて考えようとする。この思考の表面には見えませんが、それは「個の領域」および「関係性の領域」のための「外界現実への向かい方」学び放置したまま可能性が高い。まず誰もが学びたい人生の生き方の基本学ばないまま、人生への疑問をころがそうとする思考など、全くの無駄なのです、と言えます。


「行動学」は「個の領域」での答えを素材に行う

こうした積み重ねにおいて、「取り組み実践」かなり重要になってくるのが、

「行動学」は「個の領域」での答えを素材に行う。

というものであることです。

「個の領域」では、「外界現実」の中に、まずは「物理自然現象の法則」から始まる、誰の目にも見える答えがあります。
それが一目瞭然であるから、それを素材にした「建設的対人行動法」「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」といった「行動学」によって、無駄な諍(いさか)いを持つことなく、相手を自分の望む方向に動かすことが可能になるのです。

ですから、まず前記事『積み重なり1』で述べたように、何年も「学校」というものに通って得た知識からもつながるものとして、まず自分自身「それはなぜ?」という「理由」しっかりした答えをまず考えて出すことです。
それを素材あるいは手土産として出すものとして、そうした行動法をすることで、うまくいくわけです。それが「神の計画によるもの」なんてちんぷんかんぷんな話素材にしたら、どんな優れた「行動法」を試みたところで健全な人であれば誰もそうは動いてくれませんね^^。


「変われない」ネックその1・自分の答えを持たないままの行動法

「変われない人」決定的ネックこの話の文脈において2つあると前記事で触れておきましたが、その一つがここにあります。

それは、自分自身での答えの素材を持たないまま、行動法を試みようとするものです。に対してとにかくそうした行動法で向かえば、答えが出ると期待するかのように。
あるいは、とにかくそうした行動法「心がければ」、うまくいくのではという「気持ち」「姿勢」の話であるように捉えている方もおられるかも知れません。

そのようなものではありません。まず自分自身の中で、論理的に考え、答えを出すことまでを実践するのが「自分への論理的思考」です。その答えしっかり確かなものであれば、上述のような行動法によって、無駄な諍いを避けて良い関係を築くことを最大化できるということです。


人との会話はもう論理的である必要はない

あるいは、いざ人との会話になってから、論理的思考をしようとするものかも知れません。その姿勢だと、まず言ってあまり確かではない論理、つまり屁理屈の応酬で口げんかという流れなりかねません。

まず自分自身の中で、論理的に考えます。そこから人との会話になったら、もう論理的である必要などないとも、言えるのです。なぜなら、「現実の結果」として答え一目瞭然であれば、議論する必要もないからです。そうした答えを、まず自分の中で、先に持つようにすることです。

その点、の普段の人との会話など、よほど理論的に滔々と・・といったものを想像された方もおられるかも知れませんが、実際で、自分の考えを理論的に話すことなどめったにありません。「ふ~ん、あっいいよー。じゃーこうするー」という感じが主の素朴なもの^^。


・・とここまでを夕方までに突貫工事練り直し書き直したところで、そのあと彼岸ということで家族一同で墓参りと夕飯
そこから戻り、
関連話題を一通り書こうかと思いましたが酒を飲んだこともあり、今いち頭が働かない(^^;)こともありここまででアップしておきます^^ゞ
なお
明日日帰りスキーを予定ということで、あまり間を置かないようもっと細切れにでもアップしてくいくことなども検討しつつ行こうかと思います^^。

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特説・「心が良くなる」とは-12・積み重なり3
なんかぜんぜん気温が上がらないですね。昨日の報道ステーションでの天気予報を思い出し、「上がるって言ったのに~♪」思わず即興で歌った島野でした^^; (ぜんぜんメロディになってない。あはは^^;)


論理的思考に増して重要なもの・・

さて、「個の領域」から「関係性の領域」そして「人生の領域」へと、「外界現実への向かい方」展開ざっと説明してきました。

それは一言で言えば、その良し悪しによって感情の良し悪し反応が起きるような「外面現実」より良くするためにも、直接は目に見えないさまざまな「現実の法則」を持つ「外界現実」見る目を持ち、自分自身しっかり納得できる「確かさ」の積み重なりとして、「外界現実への向かい方」学び考えていくことが重要だ、ということになります。

そこでは、
・「行動学」は「個の領域」における答えを素材にして行う
というになったところで、いざ人に接する段になったらもう論理的に会話する必要などない、というまでしました。

これを引き継いで話を進めましょう。いちおう「積み重なり」についての話の締めとして。


人との「良い外面現実」として・・

人との会話というものが、あまり論理的である必要などない。
これは2つの点で、そう言うことができます。

一つは、そこで言ったことのおさらいにもなりますが、論理的にしっかりつなげる思考は、まず自分自身の中「外界現実への向かい方」着実なものにするために重要になるものだということです。
人とディベートして勝つためのものではない。そもそも言い争いで人に勝つという行動自体が、大して「良い外面現実」などではないことを、「関係性の領域」一つの題材テーマにしたいものです。自分本心どう感じ考えるかと。

そして人との行動では、論理を滔々と話すなんてのよりも、一目瞭然の答えを示せる行動が、より良いものです。「こうするといいヨ♪」と、その場の人々望む一目瞭然の結果を示せれば、くどい説明も議論も必要ないのです。
自分思考過程は、まずは自分自身のためのもの。次にもし「なんで?」聞かれた場面があった時だけ程度に、「だってこうだから」と説明できるのが、グッドな行動法です^^。


重点は「望み」「目的」という「起点」へ

もう一つは、そうして社会を前にするになった時、つまり「関係性の領域」ひいては「人生の領域」になった時、「外界現実への向かい方」着実にするための論理的思考の「過程」に増して、私たちが目を向けるべき、重要なものが出てくるということです。

それは、「外界現実への向かい方」着実にするための論理的思考「過程」の、そもそもの「起点」になるものです。
論理的思考「過程」から、その「起点」に、目を向けるものの重点移ってくるのです。

そうした「起点」とは、「何を望むのか」「何を目的にするのか」です。「望み」であり「目的」です。
そもそも、それあってのものであるわけです。私たち人間論理的思考という脳の機能とは。これこれの目的のためには、こうする良い。なぜならばこれがこうして、あれがああなるからだ、と。

ところが、そうした「そもそもの望みは何か」「そもそもの目的は何か」を、見失いやすいのがこれまた人間の思考です。「そもそもの目的を見失い・・」といった文章を、日常の中でも見かけることもありますね。
で、その後にどんなことが起きるという話なのかというと、大切な資源、たとえばお金や時間を、無駄なことに使ってしまう。どっかの国の政府のように(?^^;)。そもそもの目的をしっかり意識してそれを使っていれば、得ていたであろうもの失う形で・・。

そうして得ていたであろうもの一つ一つが集まって、私たちの「幸福」というものが形作られるわけです。それを失うことだと言えます。「そもそもの望み」「そもそもの目的」を見失うとは。

これが人間の心の業の一つ・・というか、もっと基本的「愚かさ」一面と言えますね。重要なのは「頭の良さ」ではなく「賢さ」なのだと。それは自分が何を必要としているかを、自分で知っていることなのだ、と、『積み重なり1』で話したことですね。


「目的意識」「目的思考」の重要性

かくして、「目的意識」「目的思考」重要性というものを言うことができます。

まず「目的」からしっかりと意識する。何を目的に、その行動を行うのか。
なぜなら、目的が違えば、別の答えが出てくるからです。同じ行動を行うにもです。同じ外界現実場面を前にしても、とも言えるでしょう。
たとえば毎日買い物で、食品少し変えようとした場合、それがダイエットのためなのかそれともお金の節約のためなのかで、違う答えが出てくるであろうように。

「外界現実への向かい方」としての論理的思考とはそのように、「目的」とセットだと言えます。

それと異なり、「目的」とセットにならない思考というものがあります。
「善悪思考」です。ある行動良いもの、悪いものだという思考が、一人歩きする。それによって私たちが「幸福」失うことにつながった時、まさに「善悪思考」人間の業だというテーマが見えてきます。


「目的」のさらに起点となる「欲求」「望み」

いずれにせよ、まず「目的」は、「外面現実」としてこういう「結果」になればいい、というものとして明確化されます。
そしてに、ここまで述べたような「外界現実」への論理的思考によって、何をどうすればいいという具体的「行動目標」が定まる、というになります。

これが、「外界現実への向かい方」の論理的思考の、一セットです。
「目的」を、「外界現実」側に属するものとして。

するとそこにさらにそもそもの起点となるものがある。「欲求」「望み」です。ここで話が「外界現実」から、私たちの「内面」の側に移ってきます。


「目的」と「望み」

「目的」「望み」は、また別のものです。

私たちは、それが私たち自身の望みあろうとなかろうと人の行動目的尋ねることで、「ならこうするといい」というアドバイス、あるいは話し合いをすることができます。「何が目的ですか」、と。
それが外界現実についての論理的思考というものです。

さらにそれが「望み」あるのかどうかは、また別だということです。私たちは「仕事」というものを、「目的」明確にすることで、無駄なく効果的に遂行することができるようになります。しかしそれが「望み」と言うと、話がぜんぜん別のことが多い^^;

自分からある行動をしようとしている本人にとっても、このように「目的」「望み」一段違うものであることが多々あります。
その時、「本来の目的を見失った行動」という言い方をするのと同じように、「本来の望みを見失った行動」・・とは、あまり言いませんね。
あるのはこういう言い回しになるでしょう。「自分の望みが分からないままの行動」あるいは、「自分の本当の望みに嘘をついた行動」と。

本来の目的再確認することが、行動無駄のないこと取り戻させます。
本当の望み自覚することが、それを超えて、人の行動根本的に変える力を持ちます。
こう尋ねることで。「それがあなたの本当の望みなのか」と。

かくして、異性に拒絶された憎しみから、相手の人生妨害しようと何かの行動駆られた人を前にした時、「それがあなたの本当の望みなのか」と問いた時、その人涙の中でその行動を取りやめるかも知れません。


「外界現実への向かい方」から「心のそのものの変化」へ

さて、「心が良くなる」とはというテーマについて、ここまで「外界現実への向かい方」という側面について一通り見てきましたが、ここでその真髄の部分突入することになります。

「外面現実が良くなれば感情も良くなる」のは、そもそもの前提として、それに該当する「欲求」「望み」があるからです。(『心そのものを根源とする感情』

「外面現実」よりうまく良くできるようになるため、「外界現実」への向かい方向上させる。これが「心が良くなる」ことの最初の側面だとして、そもそもの前提である「欲求」「望み」に、根本的な変化が起きる。
ならばこちらが、「心が良くなる」ことの、真髄であるのは疑いのないことでしょう。

そしてもう一つ残されたのが、「心の業と病み」捨て去りです。

これら全てを、「外界現実への向かい方」という大枠捉えているのが、ハイブリッド心理学です。「心頭滅却すれば火もまた涼し」型の、精神力に絶対なものを求める流派とは異なり。

「外界現実への向かい方」と、そうした「心そのものの変化」どうつながるかの、一番最初の部分をここで説明しました。
「目的」から「望み」へという、「そもそもの大元」つながりです。

さらにその根本的変化どこに起きるのか。「心の業と病み」捨て去りと合わせ、大枠を次に説明しましょう。

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特説・「心が良くなる」とは-13・心そのものの変化1
「心が良くなる」ことの4つの側面

さて、ハイブリッド心理学が考える「心が良くなる」こととは、ここまで説明してきた「外界現実への向かい方」をいわば助走路にするような形で、4つの側面から成るものになります。

助走路であるとは、その先かなり異質な、異次元への心の変化があるものとして。
ここでの説明は、その助走路解説の方にはるかに多くを割いたようなで、この先未知の異次元の世界への上昇があることになります。

ここでは、その最も大きなレベルでの概要を書いてみましょう。まあ飛行機飛び立ち、未知の世界が開けてくるのも、もちろん助走路から飛び立った先なのですが、パイロット成すべきこと大半は、助走路の方にあるであろうように。


「外界現実への向かい方」の「体得」「習熟」の向上

心が良くなること4つの側面1つ目は、助走路部分であり、「外界現実への向かい方」「体得」「習熟」の向上です。
単に頭で「分かる」「知る」のを超えて、「体験」を通して「体得」「習熟」することで、やがて意識努力する必要さえないものへと自動化していく部分です。
これは「外面現実」安定して良くなることを意味します。それによって、感情安定して良くなります。

ここでは「感情が良くなる」変化は、「外面現実」良くなることへの反応であるにとどまっています。
それでもいちおう、四苦八苦しながら「外面現実」を良くするのではなくなることにおいて、変化をしており、その分「心が良くなる」こと最初の側面と考えることができます。まあ助走路順調に走れるようになることと言えるでしょう。


「心そのものを根源とする感情」における根本変化

残り3つの側面が、「心そのものを根源とする感情」における変化部分になります。

3のベクトルが考えられます。『心そのものを根源とする感情』参照。順番をちょっと直してあります )
1)「自信」「自尊心」の増大
2)「欲求」「望み」の変化
3)「心の業と病み」の捨て去り



「自信」「自尊心」の増大

「外面現実」良くすることに四苦八苦しなくなることにおいて、心そのものを根源とする感情として、「不安」「不明」「無力感」といったマイナス感情減り「安心」「安全」「自信」といったプラス感情増えてきます。

これは1つ目「体得習熟の向上」セットのものだと言えます。
四苦八苦している段階では、内面ではビクビクオドオドマイナス感情が流れる一方、外面現実良くなる割合まばらだったりします。この内面外面での感情を合わせ、「辛い」わけです。
それが「体得習熟の向上」とともに、外面現実良くなる割合高くなってきて、ビクビクオドオドマイナス感情減り安心感安全感自信プラス感情増えてきます。この内面外面での感情を合わせ、心地よい感情満たされるようになってきます。


人間の生きる世界の多様性と「積み重なり」

ここまでが、「外面現実が良くなれば感情が良くなる」という心のベースの仕組みからも言える、基礎の部分と言えるでしょう。人間以外の動物にも当てはめて考えられるものです。

人間の場合・・と考えてここで見えてくるのは、その生きる世界多様性です。
人間以外の動物であれば、生まれた環境において生きる術身につけることが、そうした基礎の部分における「心が良くなる」変化の、だいたいは全部であるわけです。

人間の場合違う時代場所変化に出会うと、今までのものが通用しなくなるということが、しばしば起きます。
つまり、多少とも「安心」「安全」「自信」湧いてきたところなのに、「外面現実」それまでのようには良くならない。失敗出会うわけです。

するとどうなるのか。上述の、「心が良くなる」こと1つ目2つ目側面も、脆くも崩れ去り消えてしまうのか。

そうはならないですね。なぜか。「積み重なり」があるからです^^。
多少とも試行錯誤失敗を経ながらも、その中で、「本当に確かなもの」積み重なっていきます。
それが本当に「本当に確かなもの」である度合いに応じて、それはもう崩れることはないです。それが、人や社会に対する行動法というものであり、人生の生き方です。つまり、応用が利く」ようになるのです。

その中で、自分にとってより大きなもの、より高い価値のあるもの向かう中で、今までに得た「安心」「自信」心の基盤積み重なりながら、新たな目標への「不安」「無力感」にも向き合っていく。
その繰り返し・・ではあるのですが、同時にここに、新たなベクトルも生まれてきます。「欲求」「望み」の変化です。ここでいよいよ、助走路から飛び立って未知の異次元へと向かう航路始まることになります。これは次の記事で見ていきましょう。


心の業と病みの入り口・・

一方、そうした「積み重なり」しないものがあります。
多少とも「安心」「安全」「自信」湧いてきた・・つもりであったものが、うまくいかない場面に出会って、再び全てが元に戻るどん底に、落ちてしまうのです。

人間には、そうした面がある。それに思いを馳せる時、そこに「心の業と病み」入り口と言えるものが見えるかのような気がします。

一言で言えば、それは「積み重なって」いないからです。「積み重なる」ことをしないものです。

ここではそうした心理メカニズム詳しく解説する場ではありませんが、そうした「積み重なる」ことのない、「自信」のように見える感情について、この心理学では「プライド」という言葉で呼んでいます。

なぜそれが「積み重なる」ことをしないのかと言えば、「外界現実」の中で得る感情ではなく、「空想」の中で得る感情だからです。
「目的意識」「目的思考」から積み重ねた着実な思考によって得る感情ではあく、それを欠いた思考である「善悪思考」によって得る感情だからです。
だから「プライド」は、積み重なることのない感情なのです。

そうした「プライド」人間心の業と病みかというと、それはまだ表面をなでた浅い考えに過ぎません。
本当の心の業と病みは、そうした「プライド」から、やがて自分自身に、そして外界現実に、責め叩く破壊を向けるようになる衝動にあります。これが心の業と病みであり、悲劇です。

「プライド」心理について詳しくは、『理論編上巻』
7章 「自尊心」の混乱と喪失-2 -なぜ自信が定着しないのか-
などご興味あれば読んで頂ければ。


対処と克服のヒント

なお触れついでに、「プライド」感情への対処克服についても触れておきますと、

対処姿勢は、『異次元への高まり3』で述べた、建設的な側面破壊的な側面とに分ける」というものです。分けてどうするかはそこで簡潔に書いた通り。
それで破壊的側面自然と消えればそれに越したことはない。それでも残るものが、はっきりと「心の業と病み」の捨て去りになる、と。

最終的「心の業と病み」の捨て去りの姿は、難解です。『入門編下巻』最後の方紙面を割いた流れです。
それを最近になってようやく一言で言えるようになった文章を、『読者広場』の以下で書いたりしています。
『「愛と能力課題における人間形」など^^』 No.445 2012/02/17
いちおうその部分掲載しておきますと、
「空想の全知全能幻想の下に、愛されるための“理想化された自己像”にしがみつき、そこから“現実”を破壊し始めるという心の業が生まれる。それを“自分”を超えて生み出す自尊心を支えにして捨て去り、愛されることと自ら愛することの区別を超えた愛に向かった時、心の業の根源となる闇がはじけ散るように消え去り、無条件の愛に満たされた豊かな無が現れる」。
と。ちょっと「一言」ではないですね^^;

この「心が良くなるとは」文脈で、ホントに一言でいうとこんな感じ。

「外界現実」に向かう「望み」の変化に向かって、心の業と病みの全ての根源である「怖れ」を超えて向かった時、全てがはじけ、「命」が姿を現す。
と。

この「心が良くなるとは」文脈理解したい大きなレベルの話を、次に書きます^^。ま克服そのもの分からなくても、どこにそれがあるかを、理解することからだと言えるかと^^。

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