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島野隆のブログへようこそ!

このブログは、
心の健康人生の輝きを最大限に伸ばすための新しい心理学
「ハイブリッド人生心理学」を分かりやすい言葉で語るブログです。

ハイブリッド心理学があなたを変えるのではありません。
変化への力は、あなたの心の底にある「命」が持っています。
ハイブリッド心理学は、その力を解き放つための導きです。
本当の心の治癒と成長に向かって!
 
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  2017-10-14 『読者広場でコメントその他^^』

「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-8・内面の転換(前)
読者広場で以下にコメント入れてあります^^。
どちらも、「心に取り組むのではなく外界現実に取り組む」材料代表的な話になりますね^^。
『社会を生きる上でのスキルとは。。』 Cさん No.425 2012/01/17
『アドバイスありがとうございます。』 irohasuさん No.429 2012/01/19



アンビバレント完全消滅までの内面転換

では最後に、アンビバレント「基本形」から完全消滅に至るまでの、内面のみで行われる転換についてまとめます。
まあ「転換」というか、内面だけで成される変化ですね。

前記事でも述べたように、外面向け学びを得て向かい直すことで、内面への深く本格的な向き合いあまり意識しないまま問題解決に至れれば、それに越したことはありませんが、根深いアンビバレントを抱えたケースほど、根本克服これを通るものになると言えるかも知れません。


「外界現実への向かい方」が準備されたとき内面転換が起きる

それでもやはり、ここでも、「外界現実」への向かい方における前進が、内面転換準備前提として重要になることを言うことができます。
思考法行動法と価値観の転換とまで言わないとしても、まずそのための心の足場からです。

「深刻形」からの抜け出しからしてそうです。外界現実を、心が健康で自立した世界として捉える視野と、そこで自分の本心で生きていこうとする強い意志を持ち始めた時、アンビバレント原因他人の側の問題と感じる心の言い訳メカニズム自ら打ち破る「抜け出し」起きるのです。
自分の問題であるからこそ、そこには出口があるという可能性を、遠くとして捉える、この道スタート地点に立つこととしてです。

同じように、心の強さと豊かさ準備された時、心の弱さと未熟と病みに根づいていた思考法行動法と価値観の、根本的な誤り自覚し、捨て去り新しい思考法行動法と価値観へと転換する、内面の選択が成されます。
そして心の底埋もれたまま悪影響をおよぼしていた膿のような感情さらけ出され消えていくカタルシスの治癒と、さらにそのに眠っていた「命」の力「魂の感情」として引き出されることが起きるのです。
そこに、「命」が燃焼することで「心」が成長成熟していくという、もはや私たちの意識努力など必要もない、また意識努力などおよぶものでない、「命の生涯」という全ての前進原動力への回帰が、起きるのです。


3つの根源的な流れ

ここでは、そうした内面変化流れの仕組みといった面倒な話(^^;)はやめ、「こんなこともある」という感じで内面見える、あるいは起き得る感情として要となるものと、それへの向き合い方についてざっと書いていきます。

それでも、そこに3つ根源的な流れがあることを、ここで理解しておくのは無駄ではないでしょう。

・幼少期における「和の中で愛が与えられる」ことの役割
・それにしがみつくことが生み出す「自己中心性」の心の業
・置き去りにされた魂の望みの感情の回復

・・と言いつつ以下書いていると、かなりがっつり長い解説になっている感じ^^;


幼少期における「和の中で愛が与えられる」ことの役割

さて、先のその7では、「より深い学び」として、「和」とは「個の確立」の上に、またはそのためにある、「個」を補い合い高め合うための場だと書きました。「和」「個」「愛を与えられる」ための場ではありませんと。「和」がその仲立ちをするとしても、「愛」はあくまで「個」と「個」との間でどう築くか問われると。

もちろんそれが全てではありません。そうではない、人生の時期があります。
「幼少期」です。

幼少期においては、明らかに、「和」がその「愛」によって「個」を支え、「個」がその安心感を支えに、「自分」へと旅立っていくという構図があります。そこからはあまり「和の愛」頼ることなくです。
それが健康な姿と言えるでしょう。その「和」の代表が「家族」としてです。

問題は、それが崩れた時です。幼い「個」が、「自分」旅立つための安心基盤とできる「和の愛」を、得られないまま過ごすのです。そして「自分」旅立とうとした時に、「自分になる」「自分でいる」ための最も重要な基盤となる「安心」を、心の底持たないのです。
かわりに、「不安」があるのです。「自分になる」「自分でいる」ことへの不安がです。

かくして、自分になれなくなのです。自分でいられなくなるのです。力づくで、自分ではない何者かへ。「和に受け入れられる」ために。
もちろん「外界現実」でこのようなことが起きるのではなく、本人の心の中においてです。深く、ありのままの自分置き去りにされたまま。


心理発達課題へと求められる向かい方は変わらない

こうした心の事態観察し、さてどうしたもんだとさまざまな心の取り組み模索されます。

一つの考え方はこうです。得られなかった「和の愛」を、まずは思う存分与えてあげられる場が必要なのだ、と。もう幼くはないこの人にとっての、そんな場が、と。「育て直し療法」といった発想になるものです。

ハイブリッド心理学の考え方違います。たとえ幼少期「和の愛」が得られなかったというハンディがあったとしても、もはや幼少期ではなくなった時、「和の愛」頼ることなく「自分」を確立していく道へと向かうことが、心のDNAからの指令として課せられている、と。
これは専門的には、人が年齢に応じて向かうべき心理発達課題、そしてそこで求められる向かい方は、途中でどんな躓きがあったとしても、心の健康視点からは変わらない、という考え方の立場です。

この考え方については、既存の原稿としてはサイトの『過去原稿』埋めてしまっていますが、『心理障害の感情メカニズム』の中の
2 二次心理過程 2.1 思春期要請とその帰結感情 (2)思春期要請の帰結感情
で書いています。
色づけし直して抜粋しましょう。

最後に、このような思春期要請その結果が、今だ吸収消化されることのない愛情要求の中で起きていることを考える必要があります。
 愛情への要求はこれまでの心理過程全ての原点とも言えるものです。
 健全な心理発達においては、それが満たされることによって、基本的安心感が根付き、「それがなければ生きていけない」という必須性はもはや消え去って行きます。
 一方基本的不安から発達した個人の場合は、自分への自信未発達である程度において、「生きるために必要なもの」という形での愛情への要求が残り続けるものと考えています。

 持続する愛情要求心理障害の方本人、そして治療者の双方によりしばしば自覚されます。
 これがどのように克服されるべきものであるのか考えることの違いによって、心理障害治癒についての基本的な考え方大きく変わってくるでしょう。
 私たちが取りえる考え方の選択肢2つです。
 a)児童期を越えて残る愛情要求についても、遅まきの形ではあるが偽りない愛情を充分に与えられる必要がある。それが得られて安心感が根付くことで、障害が回復する。
 b)児童期を越えて成長した個人は、その年齢に応じた発達課題が、やはり心理障害状況においても課題である。それは愛情を与えられることではなく、人格を統合し、社会の中で生きる主体性を確立することである。それに応じて変形持続した愛情要求は消え自然な愛情への潜在力が生まれる。もしそこに愛情が必要だと言うのならば、何よりも必要なのは自分自身への愛情である。
 このサイトでのスタンス後者です。理由は、正確治癒事例観察では、前者のようなケースはなく後者のケース一般的だからです。

ここでは「正確な治癒事例観察ではそれが一般的」だからと書いていますが、今ここでその理由を、もっと鮮明に言うことができると思います。
それは受け身に盲目的な愛を与えられなければ自分の足で立って歩けないと主張する自分の嘘が、なによりも心の底でこの本人をさいなみ、すさませているのだということです。
そうして自分についた嘘による苦しみを、再び、表の意識「愛されることで救われることが必要」だと解釈するという悪循環が起きているかも知れないこととしてです。

またそもそも、健康な心理発達における社会の中での自己の確立にしても、幼少期に愛された安心にあぐらをかいて得られるようなものでは、全くないのです。
自分から生み出す価値を見出すこと、自分から愛することに、見出すものなのです。この転換は、愛されることにハンディを抱えてこそ、むしろ鮮明に見えてくるかも知れないのです。


「和の愛」にしがみつくことが生み出す「自己中心性」の心の罠

実際のところ、もう幼くはないこの人が、それによって支えられるような「和の愛」を求め続けた時、そこに起きるのは、そうした議論とはまた別の問題に思われます。

それは、和の一人一人とは親愛を築けないまま、和の愛の中にいられる満足だけを得ようとする、「自己中心性」姿です。

先日の『写真と言葉』『「和の行動」とは「個」と「愛」のコンパスで描く円』での表現とは逆に、「愛」を支柱にして「個」を振り回そうとするというになるでしょう。そこで「個」を振り回すことがいかに自分勝手に他を無視する自己中心的なものかはさておき。

他を無視して自分の満足を通そうまでするものではなくとも、私たちは人の和惹かれて入った時陥りがちな自己中心性のに、自分でも気づかないままはまる傾向があります。
の中では、誰もが、誰に対しても、親愛を向けています。その親愛自分にも向けらることで、自分からも人に親愛を返すことができる。というかできそうなお膳立てが、そこにはあるわけです。
それは確かにそうなのですが、それは個々人の間で親愛を築くのとは、ちょっと違うのを知るのが良いことです。その一度解け、再び人々が集まり始めた時、自分だけ誘われないかのような事態が起きると、心外に感じる。しかしもしその人々とそれぞれ一対一で面していても、自分はその行動を二人だけでもできるだけの親愛を実際築いているか。
それを築いている人が、まず再び集まり始めるのです。それなしに、後から迎え入れられる形でだけ都合よく和に加わることを期待し、和ができてから誘われない時に湧く怒りとは、「自己中心的な怒り」です。この私自身結構最近自覚して抜け出たりしたものでもあります。

いずれにせよこうして図らずも生み出される「自己中心性」が、人の和へのアンビバレントに際して必ずその一要素になるものであるところの、人の和から自分に向けられる「白い目」イメージ原因であることは、まず疑いのないことでしょう。
つまり心の底は、自分が個々人との愛を築けないまま和の愛を求めていることにおいて、それがもはや幼くはない者同士の和においては多少とも稚拙な「自己中心性」であることを分かっているわけです。
その結果本人がそのことを自覚できない間は・・・より正確には、個々人の間で自ら築くものとして愛を捉えることができない間は、自分自身親愛への姿勢の問題としてではなく、外部にある「白い目」の問題として心に映し出されることになります。


硬直した「和の理想」イメージ

少し話が膨らみますが、そうした「無自覚の自己中心性」への反動が起きるメカニズムが考えられますので書いておきましょう。

その一つは、硬直した「和の愛」の理想イメージを抱くようになることです。典型的に言って、「なごやかな談笑」といったもの^^;

これは「心に取り組もうとして心に取り組む」という誤った姿勢によって自己否定が逆に膨張することと合わさって起きがちであり、「深刻形」段階のものと言えます。
他ならぬ私自身がこれが原因となった起こした、鮮烈な自己否定思考エピソード記憶にありますので書いておきましょう。それは大学院当時、同じゼミ一つ下に心惹かれる可愛い女性(また『悲しみの彼方への旅』と似たパターン?^^;)もいる小部屋での談笑の和に、絶望的に惹かれながら、その和にそぐわないであろう自分が入らないことが、和のために自分にできることといった思考の中で場を離れたといった出来事です。
それによって私の心はさらにすさみ、「無自覚の自己中心性」を膨張させ、さらに和に入ることへの困難を膨張させるいった悪循環火を見るより明らかです。精神状態極めて悪化した、もう一つの時期という感じでした。

深刻形からの抜け出し視点からは、そんな言い訳せず素直に自分に自信がないと認めた方がいいという話になりますね^^。
もちろん、当時の私には得ることのできなかった、「未知への成長」のための心理学が、何よりも援軍になるだろうとして。


「圧倒的な魅力」への願望

また、人の和からの「白い目」への不安何とかカバーしようとして心が生み出す、ある要求というのがここで自然と浮かんできます。

それは「圧倒的な魅力」です。
これが一体どんなものか改めてするような説明は不要でしょう。少なくとも人の和へのアンビバレント体験した人には。
それは幼い子供が、楽しそうに遊んでいる友達達の輪に入りたくて、でも自分からは怖くてそうできないでいるのを、大人「誰々ちゃんも入れてあげて」取り持ってくれることで輪に入れるのと全く同じ構図で、もうそうしてくれる大人いない代わりに、何か絶対的な魅力を、取り持ってくれるためのものとして求めるという形になるのでしょう。

ただこうした「自己中心性」も、「圧倒的な魅力への願望」も、「より深い学び」として示した「輪と個と愛」位置づけ心得て行動法を見直すことができれば、もうあまり害のあるものではありません。
私自身、結構最近までそうした願望は流れるのを感じたものでもあります。スキーがだんぜんうまくなってクラブちやほやされるとか^^;


一貫とした「感情と行動の分離」による向き合い

またそうした「圧倒的な魅力への願望」が、実際に向上につながるのであれば、それは良い面です。

それが一貫とした「感情と行動の分離」による向き合いです。内面感情には、手を加えません悪い感情と感じた時それをかき消し蓋をし、良い感情と思えるものを自分の心に芽生えさえよう、あるいは粘土をこねくるように作り出そうとするのは、誤りです。それをすると、心が病むのです。

個々人との愛を築けないまま、和の愛の中にいる満足だけを求める感情にしてもそうです。それが個の確立の上にある和の行動のためにはもう何の原動力にもならないということを、外面現実向かう目捉えたら、あとは内面においてそんな感情があるのを、ただ見つめるだけです。

もはや役に立たない衝動があれば、ただそれがあるのを見るだけですし、未熟と病みによる衝動、たとえば中身が全くないまま「俺を見ろ!」「ワタシを見て!」というような自己顕示欲に駆られながら、いざ人前に出るとなると緊張でブルブル震えだす、そしてしどろもどろになった自分敗北感(^^;)といった感情が流れるなら、自分の中にそんな未熟病みがあるという、痛みと共に見るのがいいでしょう。
とにかくそれを感じるのであれば、それは「ある」のであり、ただ「ある」ものとして、それに手をつけることなく、感じるままに、感じるのです。

冒頭に書いたように、その時準備された、外界現実に向かう強さに応じて、そうした向き合いの中で、感じただけの量に応じてとでも表現できるような形で、それは心の根底から消えていきます。

建設的な行動つながる感情があるのであれば、それをガソリンにして行動する建設的な行動つながらない感情であれば、エンジンルームの中ただ燃焼させるだけで、車輪の回転にはつなげません
ガソリンの燃焼前進になるのではありません。それをどう車輪の回転つなげるかの意志が、前進になるのです。
ガソリンなければ前進もしません。ガソリンそのものには手を加えません。「感情」と「思考」そして「意志」それぞれが、別々の役割のものなのです。
これが、「感情と行動の分離」です。


置き去りにされた「魂」と「命」へ

一気に書き上げたいところでしたが、さすがに長いのでここでいったんアップしましょう。
明日スキーに行くかもだしー。「最強寒波」による雪がちょっと心配ですが・・。

ここまでは、和の行動個の確立の上にあるものとする外面向け行動法の下、一貫とした「感情と行動の分離」姿勢の中見えてくるかも知れないものをざっと書いてみました。

まずはその外面向け行動法確立に向かう段階であり、これが前半になります。
そこで動揺原因となる、未熟と病みに根づいた感情も、向き合いの中で減少していき、実際のところ和の中の一員としての行動結構スムーズにできるようになってきます。

一方、幼少期「和の愛」が失われたことへの根本解決は、ここではまだはっきりとは見えていません。

次の後半では、こうして得た外面行動法による「安心」によって・・・「和の愛」に支えられる安心によってではなくです!・・・支えられることで、内面「開放」深まる先に、幼少期における「和の愛の喪失」への根本解決が訪れる、後半について書いていきます。

詳説・心の治癒成長メカニズム |   コメント(0)
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-9・内面の転換(後)
では、アンビバレント根本消滅までの内面転換の、後半部分について書いていきます。
やっぱかなり長くなりましたが、とりあえずこれで大方完結です^^。補足が多少あり、それは次の記事で。


「心を超えた転換」へ

まず全体的な位置づけから言いますと、前記事で書いた前半部分「心の中での転換」であり、一方ここで書く後半部分は、「心を超えた転換」だと言えます。

この違いは、後半段階とは「魂の感情」役割果たすようになる段階だということです。

「魂の感情」とは、「心の感情」「思い描く感情」であるのに対して、「湧いてくる感情」だという基本的な違いを、2010-05-28『「魂」による「心」の浄化-2 』で書きました。フワー、ガーン、キラキラというように、擬音語が似合う感情だと。
「心の感情」「頭で描く感情」であれば、「魂の感情」とは「命が描く感情」だと。


自分から進む過程

前半段階は、和への行動を、個の確立において、まずは「自律的な楽しみと向上」しっかりと見出せることを足場にして、その共有として向かうことで、実際のところ和の行動スムーズにできるようになる過程です。

それによって、「こんな自分で」「こう見られて」といった、自分について思い描く感情の中にある、内実のあまりない・・というか現実的ではない自意識過剰自己顕示欲和から向けられる白い目イメージといったマイナス感情減少し克服される過程です。

和への行動内実を、「自律的な楽しみと向上」しっかりと置くことで、幼少期「和の愛の喪失」を引きづった無自覚の自己中心性が、重みを減らし捨て去られていくのが、その推進メカニズムだと言えるでしょう。
面倒な仕組み説明はやめ・・と書いたもののがっつり仕組み説明になってますね^^;)

いずれにせよこの、「自律的な楽しみと向上を足場にすることで和への行動がスムーズになることで動揺が克服される」というのが、克服へと「自分から進む過程」だと言えます。
行動法への理解に立って、自分で考え、考えたもの向かうという側面です。


魂に導かれる過程

一方後半段階「魂の感情」役割果たすとは、もはや克服へと「自分から進む」ではなく「魂に導かれる」過程だと言えます。

もはや「自分で考えたもの」ではない、「自分を超えたもの」自分の心の中に現れ、それが自分導いていく。
そんなものとしての「魂の感情」が、導く過程です。
だからこそ、「自分」から始まる意識つまり「自意識」の中でやはり惑うものである、人の和への、ひいてはそのものへのアンビバレントというものを根本的に消滅させる変化への力が、そこにはあると言えるのかも知れません。

そんな抽象的な話はほどほどに(^^;)して早く具体的にどんなものかを書いてくれと感じる方もおられるでしょうが、ここで重要なのは、何がそうした「魂の感情」というものを「開放」させるのかです。

それは前半「自分から進む」過程での、和に向かうための外面の建設的行動法確立に、他なりません。
外面行動における「安全」が、内面のより深い「開放」を、可能にするのです。

これは当然です。外面行動内面のどんな感情にも揺らがず安全だという安心感によって、心の底の固い蓋緩めて、自分の心心おきなく開放できるようになるのです。
もちろん他人に対してではなく、自分自身対して。


心を開ければ・・ではなく

これとは逆のアプローチ蜃気楼を求める人がやはりおられます。人に対して心を開ければ・・と。

人に対して心を開いていくのが和の行動だと考えるかも知れません。人への接し方に悩む人に、心を開いていけばそれでいいんですヨ、心を開きましょうと言うカウンセラーゴマンといるような気がします。そうすれば、きっとあなたも愛されますヨと。そうして「心を開く技術」の探求ひた走るのでしょうか。

ハイブリッド心理学は、はっきりと、それとは違う道を指し示します。外面の行動法内面感情への向き合い全く別々のものにして、内面感情を人に見せるもの、見られるものとする姿勢を、捨てるのです。
なぜか。魂の感情を守るためにです。魂の感情を感じ取るためにです。それが生み出す、心の浄化豊かさへの効果を、手に入れるためにです。
人に見せるものとした時、それはかき消され、消え去ってしまうのです。それが「魂の関係性」(*)です。

*「魂の関係性」について詳しくは以下を参照頂ければ^^。
『理論編下巻』 6章 人生の答え-1 -「魂の成長」のメカニズム-
「魂の関係性」のパラグラフ。

人に対して心を開こうと意識することで手に入れられるであろうもの捨ててもです。これを天秤にかけることはそれほど難しくはないことのように思われます。なぜなら、人に対して心を開こうと意識することで手にいれられたものとは、実際のところ、自分に嘘をつくことと、見事に何も残らない人間関係くらいしかなかったことを、人生嫌というほど体験していますので。

もしそこにアンビバレントがあるのであればなおさらです。人に対して心を開ければ考える底にある、不実な傲慢を、この心理学見出すからです。
それは自分からは愛することなく人に愛されようとする不実と傲慢です。そこに、私たち人間あらゆる心の惑いの根源があるものとして。
これはその「不実と傲慢」に対する「罪」感情「原罪」と呼んで、その乗り越え克服取り組み全体道のり最終局面に位置づけているものの話です。詳しく『入門編下巻』10章参照のこと。

もちろんここでそんな話にまでおよぶ場ではありません。言いたいのは、心を開くというのであれば人に対してではなく、まず自分自身に対してだということです。


埋められない穴を開放する

例によりちょっと話が膨らみましたが、一言でまとめますと、個の確立上にあるものとして、自律的な楽しみと向上足場にして、その共有として向かい動揺根源となる無自覚の自己中心性にもはまることなく和の行動スムーズにできるようになるという、外面行動の安全によってこそ得られる安心感で、より深く自分の内面感情開放するにあるのが、「魂の感情」によって導かれる、「自分を越えた変化」過程だということです。「一言」にしては長い^^;

ここでもやはり、前半段階「自分から進む過程」問題おおかた消えれば、それに越したことはありません。
その後に必ず「魂に導かれる過程」が必要だなんて話はできません。そもそも必要だからそこに進もうと考えて進むというでは進み得ないのがこれです。自分から進むではなく「魂」に導かれるのですから。「自分」とはもはや別もの「魂」によってです。
一方「自分から進む過程」必ず必要です。それが着実化した安定さらに先に、問題消滅までの途上「こんなこともある」一つとして「魂に導かれる過程」訪れるケースもあるだろうということです。

それでも言えるのは、恐らく、幼少期「和の愛の喪失」が実際深い傷としてあるケースほど、問題消滅までに「魂に導かれる過程」経ることになるのでは、ということです。

それを直感的にイメージする表現を言うならば、こんな感じです。
外面行動には、もう申し分ない安全が得られた。和の中で、落ち着いて行動できるようになった。それでも、埋められない穴が心にある。そんな状況です。
その時、その心の穴外面行動で埋めるのではなく、さらに開放するのです。そんな向き合い姿勢イメージ

もう一つつけ加えておくならば、「自律的な楽しみと向上」に加えて、『人生の鬼門4』で触れた「“自分ごと”ではない高み」を目指す姿勢心の足場になることが、「開放」の深まり支える役割を果たすのかも知れません。外面向け姿勢において自分を超えたものに向かう姿勢が、内面向き合いにおいても「自分」を超えた「魂」へと向かわせるのではないかと。それを支え、促すものとして。


「魂の望みの感情」

そうした向き合い姿勢の中、ふとした出来事の折に・・あくまで外界現実の出来事引き金引き出されてくるものであり、基本的自分で無理して引っ張り出すものではありません・・「魂に導かれる変化」生み出すものとして現れてくる「魂の感情」とは、「魂の望みの感情」です。

「望み」というのは、基本「心」「自意識」で描かれるものです。「こんな自分」になりたいと。多分に頭で描く、「心」感情です。

それが「魂の望みの感情」になると、「自意識」が薄れた「望み」の感情というものになります。どんな自分という意識薄れ、ただ何かに向かおうする、とても純粋で一途な感情です。
そして私たちが日常「自分」というものをはっきり意識する意識に生きていることにおいて、「魂の望みの感情」というのは、もはや「自分」ではない何か別のものが、自分という存在を使って、自分を生かそうとしているという、神秘的な、まさにスピリチュアルな趣き与えるものです。

そしてそれを体験した時、それに身を委ねる時間を経た時、私たちは、明らかに変化を起こすのです。もはや一切の理屈などつべこべ考える必要もなく。
より揺らぎなく、より豊かな、見えない心の変化をした、以前とは別の未知の自分へ。
その引き金となった、「外界現実」には何の変化もないまま。それでもこの全ての「外界現実」が、輝いているのを感じる。
そんな変化です。

これは私たちの普段の意識「自意識」を持つ意識構造になるのと同時に、「心」がその大元である「命」から分離し、「命」の持つ成長力から離れてしまったものが、「魂の望みの感情」によって「命」に再び回帰し、「命」の成長力発動するものだと、ハイブリッド心理学では考えています。


「和の愛」への魂の望みの感情

そんな理屈はともかく、具体的には、「和の愛」への純粋な望み感情として、それが妨げられた時「魂の感情」と、満たされた時「魂の感情」という、まずは2種類になるという理解でよろしいかと思います。

私の場合スキークラブ参加の折に体験した印象的なものなど書きますと、後輩同士の結婚式二次会に、盛り上がりの輪気後れであまり入りきれなく帰宅した後、自分の感情に向き合うため日記に向かっていると心に流れる、その人の輪の後ろでどうしていいか分からず泣き出している自分のイメージだったりしました。
れは妨げられた時魂の感情で、会社をやめた2005年頃のことだったか。

あと満たされた時魂の感情として印象的なものが流れるのを体験したのが、それから5年後2010年末だったか、スキー宿就寝前に談笑しているときにふと心に湧く、目が潤むような喜びの感情だったりしました。もちろん表面何ごともない談笑を続けながら。

どちらも、そのうち開設予定『島野日記ブログ』(解説ものを大方書ききった後という時期未定の先ですが・・)で、実際の状況ど臨場感込みで紹介できるかと。


「魂の望みの感情」が起こす不思議な変化

こうして「魂の望みの感情」流れるのを体験した後に心に起きる変化とは、一言でいえば、「人の和に入れない自分」を挽回克服しようとした今までの願望どう達せられたかというより、「人の和に入れない自分」という問題自体がどうあったのかが自分の中で消えてしまっている、とでも表現できるような変化です。

少し奇妙なことが起き始めている、と感じるようなものでもあります。問題どう解決したのかというよりも、問題がどうあったのか薄れている。
ですからこれは「解決した」という感覚のものではなく、「リセットされた」という感覚のものです。
問題がなくなったのではないでしょう。どんな問題が残っているのかは、これからの生活の中で、それが「ある」のであれば、こっちから探す必要もなくやってくるでしょう。しかし明らかに、自分何か心の問題があったという事実そのものが、異質に薄れているのが確かです。

この「異質な薄れ方」とは、マイナス感情リセットされるという側面もさることながら、「自意識」そのもの薄れてくるということでもあります。
「自分はどうか」という意識が、今までは足につけた重りのように引きずるものであったのが、「意識」そのものの中から消え始めているのです。
これは当然より軽快に動くようになるということであり、日常の気分もよりさわやかになり、行動力も増すことでもあります。

そして何よりも、「自分」と「他人」の空想の中で生きるという消えてくるのです。自分がどうあると人の目がどうなるから・・実際に起きてもいないことについてあれこれ悩み惑う面消え「現実の事実」だけによりしっかりと立脚した、ストレートな生き方姿勢へ。
自分「命」開放され、この「現実」へと向かう。その、惑いの一切ない「現実を生きる」という感覚芽生え始め、増大し始めるのです。
これは「生きる力」感覚に他なりません。それが、増してきている。


「看取り」が生み出す「魂の豊かさ」

こうした変化は、前記事で書いた前半のような段階から、一貫とした「感情と行動の分離」姿勢の中で、やはり一貫として、目には見えないような除々とした形起こり続けていると思われるのですが、自分にこうした変化が起きていることをはっきりと自覚するのは、何よりも、「妨げられた時の魂の望みの感情」心の中流れた後です。

そこに同時に、不思議な、というか少しおかしなこと起き始めるのです。これは「和の愛」に限らず、「愛」への魂の望み感情全般に言えることです。
それは、愛を妨げられた魂の感情より深く流した時ほど、その後に、自分が人生において「愛」に妨げられた存在だという、心の悩み惑いの一番根底にある闇の感覚消え、逆に、自分が人生において「愛」に満たされた存在だと感じるような、心の豊かさの感覚芽生え、増大していくことです。
これは単純な理屈として考えるとおかしな話です。妨げられた感情より深く流すほど、満たされたように感じるとは・・。

しかしこれがまさに、「自意識の登場」によって「心」「命」から引きはがれてしまった私たち人間の「心の構造」が生み出した、答えだとハイブリッド心理学では考えるわけです。

それはこの心理学「看取り」と呼ぶ、「魂の豊かさ」増大仕組みです。
「自分はどう」という「自意識」薄れたただ何かに一途に純粋に向かおうとする「魂の感情」において、それが叶えられない深い悲しみを、それが尽き果てるまで、心の中で見届けるのです。するとその後に、より豊かさを増した「魂の感情」より多く流れるようになってくるのです。
それはこの言葉表現される印象豊かさ感覚に他なりません。「魂に魂が宿る」と。サイト『ハイブリッド心理学とは』『5.「変わっていける人」と「心の豊かな人」』の中で出した後の方の絵のように。

なぜ
「叶えられない深い悲しみ」においてほどこれが起きるのか。これは理解できる話です。私たちがまずは「自意識」で描く「望み」叶うとは、そのうすっぺらい自意識現実世界でもそのまま通り、温存されてしまうというということです。
まあこれは実際人生の長い目からは、、望みが叶うこと自体プラス面との差し引きになる事態でもあります。実際、生まれてからずっと安易に望みが叶っている人なんて、後々あまりいい話を聞かないことが多いですね。

いずれにせよこんな仕組みもあって、上で紹介した私のスキークラブ絡みでの「魂の和の愛への望み」感情の体験も、「妨げられた魂の感情」体験の方がで、「満たされた魂の感情」の方がに来たという順番になるのだろうと考えられます。


幼少期の「和の愛の喪失」への答え

前記事で触れた、幼少期「和の愛」に支えらる心の安心を得るという「発達課題」損なわれたことへの、答え一つがここにあるのは明らかです。

つまり、それは遅まきにでも誰か他人がその人に思う存分の愛を与えてあげることではなく、あくまで年齢に応じた発達課題があるとして切り捨てるのでもなく、その人自身が、自らの心の底に置き去りにされた幼い魂の願いを、受けとめることにあるのです。

その「魂」は、何も変わることなくあり続けたのです。もはや幼い時期通り過ぎ、時間を元に戻すことはできないのを一体どうしたら解決できるのかと、頭でっかちの心理学があれこれと思案したことなど全くお構いなしに。
その、何も変わることなくあり続けた「魂」を、今大人になったその人自身「心」によって、受けとめてあげるのです。「個の確立」の上に、社会で生きることへの強さ自信を得た、「安心」の中でです。
まさに、上で触れた『5.「変わっていける人」と「心の豊かな人」』前の方の絵のように。

私はここに、怪我などで大きく損傷したの機能を、残りのの部位代替し始めることで回復することにも似た、生命の力というものを感じないではいられません。
順調な心理発達において、幼少期の発達課題達成されることが、成人期の発達課題基盤となり支えになることは知られています。最初の躓きが、連鎖的後の課題の達成も妨げてしまうという見方とともに。
しかしがあったのです。後の方の発達課題獲得が、先の発達課題における躓きを、補うということが、起きるのです。


最終形へ

こうして起きる変化とは当然人の和自分から入っていくという行動が、より抵抗なくできるようになってくるという方向へと一貫して至るものです。
その最終形では、『入門編下巻』最後の方(P.331)で書いたように、「人に接する前にすでに親しくなれている」という感覚によってです。

だからこれでいよいよ積極的に人の和の中で行動するようになるかと言うと、ところがどっこいそうはならないおかしなこともやはり起き得るわけです。
今度は逆に、人の和そのものが、もうあまり心を惹くものではなくなってくる。
それが私の場合でした。これも徐々に、かつての絶望的に惹かれる魔法の宝のように見えたものから、やがて日常の魅力的な食事のように、さらにやがて、自分はどう惹かれているか、自分にとってどんな価値があるものかと、改めて首をひねるようなものへ。

これもおかしな話ではありますが、心のメカニズムとしては理解できる話です。人との親愛心で深く妨げられているほど、親愛の感情飛び交う場である人の和というものが、その挽回のための得がたい高価なお膳立てのように、当然心に映るでしょう。もし表の意識「あんなもの」とその魅力を否定する思考を回しているならば、血が攪拌されるような異常な生理的刺激感覚としても体験されるものとしてです。まこれは細かい話。
それが、自分から人との親愛を築ける心の基盤十分に持つにつれて、そうした「できあいの人の和」「誘引」が、次第に消えてしまうわけです。

上に紹介した私のスキークラブ絡み「魂の望みの感情」体験その後の推移としても、「目が潤むような喜びの感情」なんていいながら、その後よりしっかりした絆の感情かというとそうでもなくかなりあっけらかんとした感覚だったりします。
結局、「和の愛」という心のテーマそのもの終焉に向かい、あとは個々人との絆どう持つかだけになってきたということなのだろうと。

ですから、まさに全てがリセットされた「未知」からの一歩になるわけです。そもそも今の自分にとって、どんな場がどのように魅力あるものなのか。自分はその行動をどうできるのかと。

かくして私の場合も、スキークラブについて言えば、今までは極めて心が健康な老若男女の大勢の華やかな集まりであるその場にいられる魅力に、群馬に移ったことで多少疎遠感が出てきたものの、いつまでも参加し続けようと考えていたのが、変化の兆しを迎えており、日帰り楽チンで行ける近場に比べ合宿地の白馬八方かなり遠いこともあり、参加することにあまりメリットを感じなくなってきており、今シーズン全部見送り気配。あるいはもう参加することはないかもーとか思っている今日この頃です。

まあの場合根っから単独行動を好む性向だというのがどうも結論です^^)v (←ブイマーク余計^^;) これはもう人それぞれです。どうなるのが最終形だと言える「形」など、何もないのです。私だって先はまたわかったもんじゃありません。

一方今年の元日は、兄家族妹家族先方の実家に出かけ、こっちはがそれぞれ一人暮らし。そのままだと下手すると一人で過ごす元日の夜とはわびし過ぎると、父と飲みながら食べるようこっちから運んだ次第。
こうした「自分なりの行動」というものの、私自身の人生での変遷への感慨というものを感じたのが、実はこのテーマを書こうと思ったきっかけです。

ということで、結論はこうなりますね。人の和へのアンビバレント消滅とは、単にマイナス感情部分減るというのではありません人の和自分がどう惹かれるのかも、同じく変化するのだということです。

ですから、最終形とは、最後まで「未知への成長」なのです。
常に新たな「未知」に出会い、その中で、「自分なりの行動」見出していけるようになる、ということです。

そのために今何から始めるべきか一歩一歩も、最初から最後まで変わらない、「感情と行動の分離」姿勢です。
これは前記事終わりの方で、その一貫した姿勢について述べた通りです。歩み方違いはありません。その先に『詳細マップ』にしたような、道のり進むごとに変化してくる風景の話として、ここで説明した内面の転換あるだろうということです。
まず重要なのは同じ一歩一歩の歩みであり、その先もし見えたらそこに突き進むがいいというものとしてです^^。


まずはこれで問題消滅までの流れ大方完結になります。

実はあと一つ外面行動法での「自分から進む」と、内面向き合いでの「魂に導かれる」合体型として、「抜け出し転換」がありますので、次の記事手短に書いておきましょう。あと、こうした転換パターンまとめたなど作ってありますので載せとこうかと。
それとあと大分遅くなっていますがコメントで質問が入っているケースへのアドバイスなども書いて、このシリーズを締めくくろうかと^^。

詳説・心の治癒成長メカニズム |   コメント(0)
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-10・まとめと補足
読者広場で以下にコメント入れてあります^^。

『話せる人になりたい』 irohasuさん No.435 2012/01/26
目先の感情の良し悪し踊らされることのない人生の生き方への基本指針として、「王道を学べ」というアドバイスなど^^。


では最後補足です。補足というにもやっぱちょっと長いですが^^;


内面転換のまとめ

では、内面転換についてまとめるにあたり、思い浮かんだものにしたものなど作ってありますので下の方に載せておきます。
当初はまずこれを出して、それぞれについてごく手短に箇条書き程度に済まそうかと思っていたのですが、結局本格解説ものになった次第^^ゞ

要点手短に書いておきますと、5段階があるという話になります。


1.「深刻形」段階

ここでは心理メカニズムになるものとして、「自己の抹殺」「硬直した和のイメージ」悪循環に書いています。
前者起きている後者生まれる傾向があり、それが「和にそぐわない自分」という自己否定を生み、それが再び「自己の抹殺」そそがれるという悪循環です。
その8「硬直した「和の理想」イメージ」参照)
「硬直した和のイメージ」で、さらに、「現実の人の和」皮相な演技の寄り合いだという軽蔑嫌悪や、思いやりとして自分も招き入れられるべきという観念からの「除外される憎悪」が生まれるとも考えられます。

まあこの段階とは心が多臓器不全のような状態であり、どこから手をつければいいか難しいような状態ですが、まず一番根底になるのは自己放棄脱することであり、その先に「愛の成長変化」の学びの上、「硬直した和のイメージ」が生み出している動揺解きほぐした上で、自分として何を目指すか向き合う、というのができれば理想的なアプローチのように感じられます。(その6


2.「深刻形抜け出し」から次の「和への行動開始」までの中途段階

「深刻形」から抜け出しただけの段階というのは、そのままではすぐ和への行動改善向上向かうのは難しく「日常生活と人生全体の自己能動化への取り組み」というのを置くことがやはり必要になると考えられます。
この一番基礎実践は、「自分への論理的思考」になるでしょう。
その7「生き方の全体を自己能動的に」参照)

「深刻形」はまず言って「依存の愛」「受け身の愛」中でどっぶりと生きようとしている心の状態背景にあります。そこからまず、自分の足で立って歩き始めるという、「心の自立」という大きなテーマがやはりあります。それがこの後全て克服成長過程への前提足場になります。
「心の自立」に立った「感情と行動の分離」姿勢という基本において、内面側「開放」姿勢この後克服成長過程にとって決定的に重要になります。


「つるむ相手確保」から「個人ベース行動」へ

ここでちょっと思い出した話など入れておきますと、かつての自分が、「一緒につるむ相手を確保する」という行動法の中にいたのを思い出します。
オレとオマエ、ワタシとアナタは組む時は互いを最優先する間柄、ヨロシクね!というような暗黙の了解を置ける相手を見つけて確保しようとする、人の和のいわば母集団の中における行動法です。この「人の和の母集団」としては、学校の学年やクラス社会人になってからも含めた各種のサークル集団などが代表的です。
これがかなり心の健康を損なったものとして働きがちであるのを知っておこくとは、心の健康と成長を目指す上で無駄ではないでしょう。

まあ中学生くらい年代では、最も親しい友人というのは多少ともそんな感じになるのは、そうなる特有の年頃という別枠で考えてもいいだろうものとして。また成人前までくらいの若い時期に、本当に仲が良くて、必ず行動を共にするような親友ができることは、人生の一つの豊かさになることを否定する必要はないでしょう。

問題は、そうした相手を必要とする衝動が先にある、というケースです。親しくなり始めた相手をそうした「親友願望」に当てはめる、あるいは、相手と親しくなるとは、そうした間柄になることという硬直した姿勢です。
それによって、本心からのものではない過度の親愛態度の振る舞いと、その嘘への不信感互いの間に流れる飛び交う感覚に、まさに対人アンビバレント感情・・いやそれを超える精神的混乱が生まれやすいのです。
私自身を振り返りますと、高校時代対人恐怖症から抜け出した「躁の時代」の中で、そうした行動法全開の先にまさに精神的破綻をきたしたのが、そこから「心の旅」へと歩み出すその後の私を決定づけた、大学1年終わり頃出来事でした。『悲しみの彼方への旅』P.39前後)

言えるのは、そうした「間柄の約束同盟」(^^;)形の親愛行動というのは、人生の生き方社会での行動法意識する訪れた時点で、もう別れを告げるべきものと考えるのが正解だということでしょう。全ての人が基本は別々の人生の道にある上で、タイミングが合えば行動を共にすることも歓迎するという、適切な距離感のあるオ-プンな交友行動法学びたいものです。
青少年向け人生論(つまりそれ以後には役立たない人生論?^^;)では「互いを見捨てないのが親友」といったことを言うでしょうが、あまり真に受けないのがお勧めです^^; その言葉が感動を呼ぶ場面その言葉が出るのはまあいいでしょうが、一般的な行動法として考えて役に立つものでは全くありません。
人生の生き方を意識する時が来たのであれば、学びたいのは、相手によって変わることのない一貫した行動法です。ハイブリッド心理学で採用している「行動学」は、まさにそうした行動法として3種類のものからなるものです。(2010-05-18『3つの「行動学」』など)


「組む相手を得る焦り」・・

それと似たもので、「組む相手を得る焦り」というのが、「自分一人が浮く恐怖」というのが膿のように流れた時どうしても起きがちです。
これはガソリンの中に混じる不純物のように、多少その残骸があれば時にそのようにうごめいてしまうこともあるのが、結構後の方の段階になってもあるというのが、私の経験からは言えることです。
冒頭で触れた読者広場のご相談も、そんな面が多少含まれていると思います。

これへの向き合い方をさらに比喩で手短に言うならば、ガソリンの中に混じる不純物のように、完璧にそれがなくなったきれいな状態までもっていくのも簡単ではないとして、まずそれがガソリンの中に混じる不純物の方であることしっかりと分かることからです。それが純正のガソリンの方だと勘違いすることなく。
そう勘違いして、ガソリンそれで満たしていきながら走ろうとすると、エンジン壊れてしまいます。

次の段階からが、本来の純正のガソリンで走るというのが自分でも分かってくる段階です。


3.とにかく外面では和への健康な参加行動ができるようになる段階

「個の確立」における「自律的な楽しみと向上」支柱に、その共有描柱とするコンパス描く円として(1/20『「和の行動」とは「個」と「愛」のコンパスで描く円』)、への健康な参加行動ができるようになる段階です。(その7・より深い学び

注目願望緊張不安などのチグハグな感情が、とにかく「感情と行動の分離」姿勢内面で受け流す中で減少していくのが、克服成長主な面となる段階です(その8・内面の転換-前)。こうした感情はもちろん、最終形段階まで徐々に薄くなりながら残ると考えておくのが正解でしょう。


「心を開いている姿の圧倒魅力感」

この段階あたりで、説明の中で触れていなかったものが一つあり、「心を開いている姿の圧倒魅力感」というものです。
これは内面ただ流し向き合うこともあるだろうものとして、例によりちょっと話を膨らます話題ですが、印象がかなり強かったので書いておきましょう。

これは和の「場」魔法の宝の部屋(^^;)のように感じる感覚や、魂の純粋な和の愛への望みとはまた別のもので、心を開いて人に接している人という個人の姿が、その様子において何か圧倒的な魅力であるように感じる感覚です。
私の経験ですと、「どうしてそんな風でいられるのだろう」ただ引きつけられたり、電車の喧騒の中そんな姿を見かけた時、一体どんな話をしているんだろう意識が引きつけられたものです。
そこには、心における何かを持っている人がいる、という強烈な感覚があり、その感覚の強烈さにおいて、私の自己分析経験の中でしばしば登場したものです。

そこには真似ようとした時、まがいものになって消えてしまう輝きがある、という目線で、自分が何に惹かれているのかをただ心に刻むのが良さそうだ、とここでは手短に書いておきましょう。ちょっと言葉足らずですが。
『島野日記』ブログを始めたらこの手のが沢山出てくると思いますので^^。

一方、これを目標にして、自分あんな風に心を開ける人に、と、その言葉仕草など外見様子だけの「習得」駆られるというのがありがちで、これが愛を形ばかりで追求することで逆に愛を見失う罠につながるものだと言えます。
『入門編下巻』「9章 愛への道」そうした話を展開したものになっていますので^^。(P.284前後)

こんな印象のものだったと感じます。西に向かって走ってる時に、時折東を見ると異様に明るい月が見えた。そんなイメージ。そしてあらゆる取り組み全く関係しないまま・・向かうのは西なのですから・・、ゴールした時、消えていたもの。そんな感じです。
経緯を振り返るならば、全くつながりは見えないまま、「魂の愛への望み」の感情流す体験ごとに、それは薄れていったということになると思います。自分の「魂」が豊かになっていくという感覚(その9・内面の転換-後)と、まさに反比例しているようにです。


4.和への外面行動に満足と安定を見出す一方で埋められない内面の穴を「魂による導き」が埋めていく段階
5.自分なりの行動法の定着調整へと向かう段階


終わりのこの2つの段階前記事その9・内面の転換-後参照^^。


「抜け出し」の転換

最後に、外面行動法改善向上として「自分から向かう」過程と、内面世界での「魂に導かれる」過程合体したような、「抜け出し」の転換というのがあることも記しておきます。では4番目の段階の中に書いています。

これはこのブログそして歩み方ガイド表現で言う、「受け身意識の闇の川」一度はまりそこから抜け出るという転換に他なりません。
人の和惹かれ、なんとかその中へと行動するのですが、ちょっとした行き違いや中途半端な状況の中で、まあ一言でいえば和に入ろうとした自分の心の不都合自分の心にさらけ出されると同時に、そのまま和の中にいる行動も取りにくく苦しい心の状態になるものです。
この「自分の心の不都合」とは、自分を偽った自己操縦のストレス自分自身に明らかになることであったり、前記事では「ここでそんな話にまでおよぶ場では」と触れた「原罪」、つまり自分からは愛することなく人に愛されようとした自分の不実と傲慢への自己嫌悪感情だったりします。これは魂が抱く自己嫌悪感情だと言えます。

こうした状況で、和に惹かれその中にいる自分の存在のあり方の全体を、問い直すのです。「自分に嘘をついて愛することはできない」という真実の言葉の下で。
そこに、受け身に愛されることへの望みから始まった意識世界からの、トータルな抜け出しというのが起き得ます。
実はこれが一番、大きな心の変化が得られるものです。まさに脳が一枚脱皮したかのように。

この「抜け出し転換」が、ハイブリッド心理学歩み全て凝縮したものであり、さまざまな人生場面で起きるものの一つのバージョンが、和への参加行動にもあるということになります。
2011-10-30『「悟り」と「未知」-6・乗り越えるべきもの』私の日記など紹介した、「脳の騒がしい皮が一枚はがれた」と感じた転機なども、やはりこの「抜け出し転換」ですね。

この「抜け出し転換」は、取り組みの歩み最初の方から最後の方まで、全段階においてあり得ます。そこで、後の方の段階になるほど、何が起きているのかが自分自身で分かるようになり、抜け出した後の、自意識そのものが薄れ惑いがなくなる、「生きる力」の増大その9・内面の転換-後「「魂の望みの感情」が起こす不思議な変化」参照)がはっきりと感じられるものになってきます。

抜け出すその瞬間の前まではきわめて苦しい状態になる体験ですので、なければそれに越したことはありませんが、実は得るものもそれに増して大きいものとしてこんなものもあると理解しておいて頂ければ^^。


ということでようやっとこのシリーズの説明完了^^。はあ~~っと一服のため息^^;
あとコメントで質問頂いたものへのアドバイスを次に書いておきます^^。


 治癒成長の段階ごとの要点まとめ
段階状況 内面要因 対処
自己の抹殺
  
・自分の見捨て
・過度の受け身姿勢
・誤った取り組み姿勢
硬直した和のイメージ
(これが再び
自己の抹殺の原因に)
「自分への論理的思考」
の習得の上で、心が健康で
自立した世界の和の行動法
をとにかく学ぶ
「深刻形」からの抜け出し
・日常生活と人生全体の自己能動化への取り組み
「つるむ相手確保」をやめ「個人ベース行動」
・「感情と行動の分離」により外面は建設的行動の一方、内面の開放
「自律的な楽しみと
向上」
を足場に和への
行動の開始
・チグハグな衝動
(自己顕示欲+緊張)
「感情と行動の分離」
 やりすごす
・心を開く姿の圧倒魅力 ・自分が何に惹かれて
 いるかをしっかり把握
「未知への成長」
の体得
(抜け出し・魂の感情)
・自己操縦ストレス
 自覚
「自分は何を望むのか」
 「嘘をついて愛せない」
 を問い再び向かい直す
(抜け出し・膿と原罪克服)
 
・「人の和」への
 希求の魂の感情
・満たされる時間の享受
「看取り」
最終形(永遠の命
の感性・怖れの消滅)
受け身の誘引と抵抗感の双方が減少
→自分なりの行動法の定着調整へ
詳説・心の治癒成長メカニズム |   コメント(0)
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-11・質問ケース
ではこれがこのシリーズ正真正銘ラスト記事ということで、コメントでご質問を頂いているケースへのアドバイスなど書いてみましょう。
1/5のその2に頂いたコメントで、1か月後大分遅れましたが、どんなアドバイスをする時もじっかり検討時間を持ってからの主義ということでご容赦^^; また踏まえるべき材料がこれで大方出ましたので^^。

こんなご質問ケース

あまり親しくないが顔見知りの他人道ですれ違う時妙な惑いが生じます。
その惑いが嫌で、そのような人がいるところには近づきたくないと思うようにさえなるに至っています。

ここにもアンビバレントな感情があるのかもしれません。

ただ、視線恐怖や上記状況に取り組むことができないのであれば、現実にどういう行動をとるのが適当であると島野さんは考えますか?

たとえば、視線のやり場に困る。その時に、視線をどこにおいてどうやり過ごすか、また、あいさつはするのか気付かないふりをするのか、などといったことについていい知恵はないでしょうか。

小さな問題にも思えますが、現状として、苦しい状況です。
当面、内面に解決ができないのであれば、何か苦しさ軽減方法はないものか。
いかがでしょうか。

これについて、『進み方流れチャート』(右上の便利リンクより^^)などで説明の、「右左右の3段階ハンドルさばき」という基本的な進め方に沿ったアドバイスをしたいと思います。


検討の進め方

まず右ハンドル1健康で心が自立した世界での建設的な思考法行動法です。

ここで重要なのは、「感情を無視して理屈で行動する」のかという誤った理解ではなく、内面の成長にも向かう、内面の感情も一つの検討材料にする、建設的行動法の答えを知ることです。
内面感情を無視した、杓子定規の行動法の答え、ではなく、
内面感情の一時的な良し悪しに踊らされて「こうすればいいのでは」と生病法で考えた答えではない、
内面感情をも健康と成長に導く行動法の答え、を知ることが大切です。ちょっとややこしい?^^;

そのように、内面感情まで多少考慮したものとして、最初の検討基準となる外面行動法学びます。これが右ハンドル1
そこで言う内面感情の考慮法つまり役立て方すんなりできない、といった内面妨げ状況がありそうであれば、それは何か内面へのじっくり向き合いを行う。これが左ハンドル
その左ハンドルを経て再び外面行動に向き直してみるのが右ハンドル2になります。

そんな検討手順として、ここではまず最初の右ハンドル1として、行動法基本的な考え方を主に書いてみましょう。


まずは「挨拶の行動法」の問題

まず、書いて頂いた状況で、何が自分の課題なのか考え方から学ぶことが大切です。目先の感情の良し悪しをどうこうしようという焦り踊らされることなく。自分を、この社会で自信を持って生きていけるよう成長させるために、何を課題としてその答えを学ぶかからです。

するとここでは、どんな場面ではどんな人にどんな風にという、「挨拶のマナー」もしくは行動法の方が重要な課題テーマであって、それに対し「視線のやり場」というのは誤差程度のものでしかないと言えると思います。
まあくまで「社会行動の習得」としては。

で、はっきりと「挨拶の行動法」について考えるなら、「顔見知り」(“あっあの人知ってる”と感じる)程度道ですれ違うのなら、まず挨拶は必要ありません。まあ隣近所とか、「良く顔を合わせる相手」(“あっあの人知ってる”もなにも周知の相手)程度以上になってくると「こんにちは」とか軽く声をかける程度の挨拶をする望ましい

加えて、前者の「顔見知り」程度の場合、もしその人さらに親しくなりたいのであれば、はっきり挨拶するのがいいでしょう。そうでなければ、まず必要はないでしょう。
ここに、「望みに向かい現実に向かう」という心の成長歩みとして「自分はどうしたいか」問う部分が出てきます。


「視線のやり場」動揺の糸口

そのような右ハンドルさばきでまずは順調に実際場面に向かうことができればそれに越したことはありませんが、それにすんなり合わない感情動揺があるのであれば、それは一体なんじゃらほいという内面向き合い検討する必要が出てきます。これが左ハンドルの部分。

考えられる原因として思いつくもの2つほど書いておきますと、

1)一般的若い年齢ほど、不特定多数との関係可能性の感覚が大きく、また人との関係において表情仕草などの感情表現のプラスマイナス印象の役割が強く感じられる。
これが年を重ねるごとに、というか人生経験を重ねるごとに、自分が関係を持つ相手というのは家族、近所、職場というように固まったものになってくる、というか不特定多数への関係可能性という感覚がしぼんで(^^;)くる。他人にいきなり「もしやこの人が運命の人だったら」なんてトキメキはもうよーせんようになってくるという感じで。また表情仕草なんてものより、一緒に何をする相手かという、はっきり目的意識ありきの意識になるというように変化してくるのが、まずは「順当」です。ま視線をくれるかどうかより、金をくれるどうかを気にするというように^^;
どっちがいい悪いという話でもなく、まず世の他人全般を、若い自分と同じ感覚で自分の視線を気にすると固定して考えてはいないかが、まずは検討できることかと思います。

2)先のその10で触れた、「過度の親愛態度の振る舞い」というのものに、もし挨拶するなりの関係行動に入るとなる駆られる傾向があると、書いて頂いたような惑い抵抗が起きやすくなることが考えられます。過度の親愛態度冷淡な無関心との中間形というのが良く分からないと感じる人ですね。すると中途半端な顔見知り程度というのが、かなりストレスになるのは容易に想像できることです。
これはその話で触れた、「適切な距離感のあるオ-プンな交友行動法」というのをどう習得するかが、ひとえに克服への原動力になると思います。

いずれにせよ、まずは「気にしなければいい」ではなく、自分が何を気にしているのか、気にし過ぎているのかを、しっかり把握することからになると思います。
その上で、上記1)のような固定観念を捨てることを意識することで多少軽減できればいいとして、根本的には、上記2)で指摘のように、その場面での動揺そのものに取り組むというより、生活と人生全体でのオ-プンな対人行動の幅を広げることが、自然とその克服につながると思います。


糸口レベルから全体レベルへ

これがまずは糸口レベル左ハンドルつまり内面妨げへの向き合いと、それを受けた右ハンドル2つまり外面行動への向かい直しになります。

そこにまた難儀を感じる場合は、「感情を鵜呑みにしない思考」とか「心の自立」とか、心の成長全体テーマ本格的な取り組み材料になってくる、という段取りになりますです^^。これが『詳細マップ』(これも右上の便利リンクより^^)で示しているものですね^^。

いずれにせよすんなり行かない場合は、成長に向かう方向性をしっかりと基準にして、自分はそれをどう理解納得できるかという「立ち位置」によって、より正確な内面課題が見えてきますので、また何かあれば何でもご質問頂ければと思います^^。

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