カテゴリ: 詳説・心の治癒成長メカニズム の記事一覧(作成順)
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「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-8・内面の転換(前)
2012-01-27 Fri 16:27:15
読者広場で以下に
コメント入れてあります^^。
どちらも、
「心に取り組むのではなく外界現実に取り組む」の
材料の
代表的な話になりますね^^。
『社会を生きる上でのスキルとは。。』 Cさん No.425 2012/01/17
『アドバイスありがとうございます。』 irohasuさん No.429 2012/01/19アンビバレント完全消滅までの内面転換では
最後に、
アンビバレントの
「基本形」から
完全消滅に至るまでの、
内面のみで行われる
転換についてまとめます。
まあ
「転換」というか、
内面だけで成される
変化ですね。
前記事でも述べたように、
外面向けの
学びを得て
向かい直すことで、
内面への
深く本格的な向き合いは
あまり意識しないまま
問題解決に至れれば、
それに越したことはありませんが、
根深いアンビバレントを抱えた
ケースほど、
根本克服は
これを通るものになると言えるかも知れません。
「外界現実への向かい方」が準備されたとき内面転換が起きるそれでもやはり、ここでも、
「外界現実」への向かい方における前進が、
内面転換の
準備前提として
重要になることを言うことができます。
思考法行動法と価値観の転換とまで言わないとしても、まずそのための
心の足場からです。
「深刻形」からの
抜け出しからしてそうです。
外界現実を、
心が健康で自立した世界として捉える
視野と、そこで
自分の本心で生きていこうとする強い意志を持ち始めた時、
アンビバレントの
原因を
他人の側の問題と感じる
心の言い訳メカニズムを
自ら打ち破る「抜け出し」が
起きるのです。
自分の問題であるから
こそ、そこには
出口があるという
可能性を、遠く
光として捉える、
この道の
スタート地点に立つこととしてです。
同じように、
心の強さと豊かさが
準備された時、
心の弱さと未熟と病みに根づいていた思考法行動法と価値観の、
根本的な誤りを
自覚し、捨て去り、
新しい思考法行動法と価値観へと
転換する、
内面の選択が成されます。
そして
心の底に
埋もれたまま悪影響をおよぼしていた
膿のような感情が
さらけ出され消えていくカタルシスの治癒と、さらにその
底に眠っていた
「命」の力が
「魂の感情」として引き出されることが
起きるのです。
そこに、
「命」が燃焼することで「心」が成長成熟していくという、もはや私たちの
意識努力など
必要もない、また
意識努力など
およぶものでない、
「命の生涯」という
全ての前進の
原動力への
回帰が、
起きるのです。
3つの根源的な流れここでは、そうした
内面変化の
流れの仕組みといった
面倒な話(^^;)はやめ、
「こんなこともある」という感じで
内面に
見える、あるいは
起き得る感情として
要となるものと、それへの
向き合い方についてざっと書いていきます。
それでも、そこに
3つの
根源的な流れがあることを、ここで
理解しておくのは無駄ではないでしょう。
・幼少期における「和の中で愛が与えられる」ことの役割
・それにしがみつくことが生み出す「自己中心性」の心の業
・置き去りにされた魂の望みの感情の回復
・・と言いつつ以下書いていると、かなり
がっつり長い解説になっている感じ^^;
幼少期における「和の中で愛が与えられる」ことの役割さて、先の
その7では、
「より深い学び」として、
「和」とは
「個の確立」の上に、またはそのためにある、「個」を補い合い高め合うための場だと書きました。
「和」は
「個」が
「愛を与えられる」ための場ではありませんと。
「和」がその
仲立ちをするとしても、
「愛」はあくまで
「個」と「個」との間でどう築くかが
問われると。
もちろん
それが全てではありません。そうではない、
人生の時期があります。
「幼少期」です。
幼少期においては、明らかに、
「和」がその「愛」によって「個」を支え、「個」がその安心感を支えに、「自分」へと旅立っていくという
構図があります。そこからは
あまり「和の愛」に
頼ることなくです。
それが
健康な姿と言えるでしょう。その
「和」の代表が
「家族」としてです。
問題は、それが
崩れた時です。
幼い「個」が、
「自分」に
旅立つための
安心の
基盤とできる
「和の愛」を、
得られないまま過ごすのです。そして
「自分」に
旅立とうとした時に、
「自分になる」「自分でいる」ための
最も重要な基盤となる
「安心」を、
心の底に
持たないのです。
かわりに、「不安」があるのです。
「自分になる」「自分でいる」ことへの
不安がです。
かくして、
自分になれなくなのです。
自分でいられなくなるのです。
力づくで、
自分ではない何者かへ。
「和に受け入れられる」ために。
もちろん
「外界現実」でこのようなことが
起きるのではなく、
本人の心の中においてです。深く、
ありのままの自分が
置き去りにされたまま。
心理発達課題へと求められる向かい方は変わらないこうした
心の事態を
観察し、さて
どうしたもんだとさまざまな
心の取り組みが
模索されます。
一つの考え方はこうです。
得られなかった「和の愛」を、まずは
思う存分与えてあげられる場が必要なのだ、と。
もう幼くはないこの人にとっての、
そんな場が、と。
「育て直し療法」といった
発想になるものです。
ハイブリッド心理学の考え方は
違います。たとえ
幼少期に
「和の愛」が得られなかったというハンディがあったとしても、
もはや幼少期ではなくなった時、
「和の愛」に
頼ることなく「自分」を確立していく道へと向かうことが、
心のDNAからの指令として
課せられている、と。
これは
専門的には、人が
年齢に応じて向かうべき
心理発達課題、そしてそこで
求められる向かい方は、
途中でどんな躓きがあったとしても、
心の健康の
視点からは
変わらない、という
考え方の立場です。
この
考え方については、
既存の原稿としては
サイトの『過去原稿』に
埋めてしまっていますが、
『心理障害の感情メカニズム』の中の
2 二次心理過程 2.1 思春期要請とその帰結感情 (2)思春期要請の帰結感情で書いています。
色づけし直して
抜粋しましょう。
最後に、このような思春期要請とその結果が、今だ吸収消化されることのない愛情要求の中で起きていることを考える必要があります。
愛情への要求はこれまでの心理過程の全ての原点とも言えるものです。
健全な心理発達においては、それが満たされることによって、基本的安心感が根付き、「それがなければ生きていけない」という必須性はもはや消え去って行きます。
一方基本的不安から発達した個人の場合は、自分への自信が未発達である程度において、「生きるために必要なもの」という形での愛情への要求が残り続けるものと考えています。
持続する愛情要求は心理障害の方本人、そして治療者の双方によりしばしば自覚されます。
これがどのように克服されるべきものであるのかと考えることの違いによって、心理障害の治癒についての基本的な考え方が大きく変わってくるでしょう。
私たちが取りえる考え方の選択肢は2つです。
a)児童期を越えて残る愛情要求についても、遅まきの形ではあるが偽りない愛情を充分に与えられる必要がある。それが得られて安心感が根付くことで、障害が回復する。
b)児童期を越えて成長した個人は、その年齢に応じた発達課題が、やはり心理障害状況においても課題である。それは愛情を与えられることではなく、人格を統合し、社会の中で生きる主体性を確立することである。それに応じて変形持続した愛情要求は消え自然な愛情への潜在力が生まれる。もしそこに愛情が必要だと言うのならば、何よりも必要なのは自分自身への愛情である。
このサイトでのスタンスは後者です。理由は、正確な治癒事例観察では、前者のようなケースはなく後者のケースが一般的だからです。
ここでは
「正確な治癒事例観察ではそれが一般的」だからと書いていますが、今ここでその
理由を、
もっと鮮明に言うことができると思います。
それは
受け身に盲目的な愛を与えられなければ自分の足で立って歩けないと主張する自分の嘘が、なによりも心の底でこの本人をさいなみ、すさませているのだということです。
そうして
自分についた嘘による苦しみを、再び、
表の意識は
「愛されることで救われることが必要」だと
解釈するという
悪循環が起きているかも知れないこととしてです。
またそもそも、
健康な心理発達における
社会の中での
自己の確立にしても、
幼少期に愛された安心にあぐらをかいて得られるようなものでは、
全くないのです。
自分から生み出す価値を見出すこと、自分から愛することに、見出すものなのです。
この転換は、愛されることにハンディを抱えてこそ、むしろ鮮明に見えてくるかも知れないのです。
「和の愛」にしがみつくことが生み出す「自己中心性」の心の罠実際のところ、
もう幼くはないこの人が、それによって
支えられるような「和の愛」を求め続けた時、そこに
起きるのは、そうした
議論とはまた
別の問題に思われます。
それは、
和の一人一人とは親愛を築けないまま、和の愛の中にいられる満足だけを得ようとする、「自己中心性」の
姿です。
先日の
『写真と言葉』の
『「和の行動」とは「個」と「愛」のコンパスで描く円』での表現とは逆に、
「愛」を支柱にして「個」を振り回そうとするという
図になるでしょう。そこで「
個」を振り回すことがいかに
自分勝手に他を無視する自己中心的なものかはさておき。
他を無視して自分の満足を通そうと
までするものではなくとも、私たちは
人の和に
惹かれて入った時に
陥りがちな自己中心性の罠に、
自分でも気づかないままはまる傾向があります。
和の中では、
誰もが、
誰に対しても、
親愛を向けています。その
親愛が
自分にも向けらることで、
自分からも人に
親愛を返すことができる。というか
できそうなお膳立てが、そこには
あるわけです。
それは
確かにそうなのですが、それは
個々人の間で親愛を築くのとは、
ちょっと違うのを
知るのが良いことです。その
和が
一度解け、再び人々が集まり始めた時、
自分だけ誘われないかのような事態が起きると、
心外に感じる。しかし
もしその人々とそれぞれ一対一で面していても、自分はその行動を二人だけでもできるだけの親愛を実際築いているか。
それを築いている人が、まず再び集まり始めるのです。それなしに、
後から迎え入れられる形でだけ都合よく和に加わることを期待し、
和ができてから誘われない時に湧く怒りとは、
「自己中心的な怒り」です。この
罠は
私自身、
結構最近自覚して抜け出たりしたものでもあります。
いずれにせよこうして
図らずも生み出される
「自己中心性」が、
人の和へのアンビバレントに際して
必ずその一要素になるものであるところの、
人の和から自分に向けられる「白い目」イメージの
原因であることは、
まず疑いのないことでしょう。
つまり
心の底は、
自分が個々人との愛を築けないまま和の愛を求めていることにおいて、それがも
はや幼くはない者同士の和においては
多少とも稚拙な「自己中心性」であることを
分かっているわけです。
その
結果、
本人がそのことを自覚できない間は・・・より
正確には、
個々人の間で自ら築くものとして愛を捉えることができない間は、
自分自身の
和と
親愛への
姿勢の問題としてではなく、
外部にある「白い目」の問題として
心に映し出されることになります。
硬直した「和の理想」イメージ少し話が膨らみますが、そうした
「無自覚の自己中心性」への
反動が起きる
メカニズムが考えられますので書いておきましょう。
その
一つは、
硬直した「和の愛」の理想イメージを抱くようになることです。
典型的に言って、
「なごやかな談笑」といったもの^^;
これは
「心に取り組もうとして心に取り組む」という
誤った姿勢によって
自己否定が逆に膨張することと
合わさって起きがちであり、
「深刻形」の
段階のものと言えます。
他ならぬ私自身がこれが
原因となった起こした、
鮮烈な自己否定思考の
エピソードが
記憶にありますので書いておきましょう。それは
大学院当時、
同じゼミで
一つ下に心惹かれる可愛い女性(また『悲しみの彼方への旅』と似たパターン?^^;)もいる
小部屋での談笑の和に、
絶望的に惹かれながら、その
和にそぐわないであろう自分が入らないことが、和のために自分にできることといった思考の中で
場を離れたといった
出来事です。
それによって
私の心はさらにすさみ、
「無自覚の自己中心性」を膨張させ、さらに
和に入ることへの困難を膨張させるいった
悪循環は
火を見るより明らかです。
精神状態が
極めて悪化した、
もう一つの時期という感じでした。
深刻形からの
抜け出しの
視点からは、そんな
言い訳せず
素直に自分に自信がないと認めた方がいいという話になりますね^^。
もちろん、
当時の私には得ることのできなかった、
「未知への成長」のための
心理学が、何よりも
援軍になるだろうとして。
「圧倒的な魅力」への願望また、
人の和からの「白い目」への
不安を
何とかカバーしようとして心が生み出す、
ある要求というのがここで自然と浮かんできます。
それは
「圧倒的な魅力」です。
これが
一体どんなものかと
改めてするような説明は不要でしょう。少なくとも
人の和へのアンビバレントを
体験した人には。
それは
幼い子供が、
楽しそうに遊んでいる友達達の輪に入りたくて、でも
自分からは怖くてそうできないでいるのを、
大人が
「誰々ちゃんも入れてあげて」と
取り持ってくれることで輪に入れるのと全く
同じ構図で、もう
そうしてくれる大人は
いない代わりに、何か
絶対的な魅力を、
取り持ってくれるためのものとして求めるという形になるのでしょう。
ただこうした
「自己中心性」も、
「圧倒的な魅力への願望」も、
「より深い学び」として示した
「輪と個と愛」の
位置づけを
心得て行動法を見直すことができれば、
もうあまり害のあるものではありません。
私自身、結構最近までそうした
願望は流れるのを感じたものでもあります。
スキーがだんぜんうまくなって
クラブで
ちやほやされるとか^^;
一貫とした「感情と行動の分離」による向き合いまたそうした
「圧倒的な魅力への願望」が、
実際に向上につながるのであれば、それは
良い面です。
それが
一貫とした
「感情と行動の分離」による
向き合いです。
内面感情には、
手を加えません。
悪い感情と感じた時それを
かき消し蓋をし、良い感情と思えるものを自分の心に芽生えさえよう、あるいは粘土をこねくるように作り出そうとするのは、
誤りです。それをすると、
心が病むのです。
個々人との愛を築けないまま、
和の愛の中にいる満足だけを求める感情にしてもそうです。それが
個の確立の上にある和の行動のためにはもう
何の原動力にもならないということを、
外面現実に
向かう目で
捉えたら、あとは
内面において
そんな感情があるのを、
ただ見つめるだけです。
もはや役に立たない衝動があれば、
ただそれがあるのを見るだけですし、
未熟と病みによる衝動、たとえば
中身が全くないまま「俺を見ろ!」「ワタシを見て!」というような自己顕示欲に駆られながら、
いざ人前に出るとなると
緊張でブルブル震えだす、そして
しどろもどろになった自分に
敗北感(^^;)といった
感情が流れるなら、自分の中にそんな
未熟と
病みがあるという、
痛みと共に見るのがいいでしょう。
とにかく
それを感じるのであれば、
それは「ある」のであり、
ただ「ある」ものとして、それに手をつけることなく、感じるままに、感じるのです。
冒頭に書いたように、その時
準備された、
外界現実に向かう強さに応じて、そうした
向き合いの中で、
感じただけの量に応じてとでも表現できるような形で、それは
心の根底から
消えていきます。
建設的な行動に
つながる感情があるのであれば、それを
ガソリンにして
行動する。
建設的な行動に
つながらない感情であれば、
エンジンルームの中で
ただ燃焼させるだけで、
車輪の回転には
つなげません。
ガソリンの燃焼が
前進になるのではありません。それをどう
車輪の回転に
つなげるかの意志が、
前進になるのです。
ガソリンが
なければ前進もしません。
ガソリンそのものには手を加えません。
「感情」と「思考」そして「意志」それぞれが、別々の役割のものなのです。
これが、
「感情と行動の分離」です。
置き去りにされた「魂」と「命」へ一気に書き上げたいところでしたが、
さすがに長いのでここで
いったんアップしましょう。
明日スキーに行くかもだしー。「最強寒波」による雪がちょっと心配ですが・・。ここまでは、
和の行動を
個の確立の上にあるものとする
外面向け行動法の下、
一貫とした
「感情と行動の分離」の
姿勢の中で
見えてくるかも知れないものをざっと書いてみました。
まずはその
外面向け行動法の
確立に向かう段階であり、これが
前半になります。
そこで
動揺の
原因となる、
未熟と病みに根づいた感情も、
向き合いの中で
減少していき、
実際のところ
和の中の一員としての行動が
結構スムーズにできるようになってきます。
一方、
幼少期に
「和の愛」が失われたことへの
根本解決は、ここでは
まだはっきりとは見えていません。
次の
後半では、こうして得た
外面行動法による「安心」によって・・・
「和の愛」に支えられる安心によってではなくです!・・・
支えられることで、
内面の
「開放」が
深まる先に、
幼少期における
「和の愛の喪失」への
根本解決が訪れる、
後半について書いていきます。
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-9・内面の転換(後)
2012-02-02 Thu 12:19:40
では、
アンビバレントの
根本消滅までの
内面転換の、
後半部分について書いていきます。
やっぱ
かなり長くなりましたが、とりあえずこれで
大方は
完結です^^。
補足が多少あり、それは
次の記事で。
「心を超えた転換」へまず
全体的な位置づけから言いますと、
前記事で書いた
前半部分は
「心の中での転換」であり、一方ここで書く
後半部分は、
「心を超えた転換」だと言えます。
この
違いは、
後半段階とは
「魂の感情」が
役割を
果たすようになる
段階だということです。
「魂の感情」とは、
「心の感情」が
「思い描く感情」であるのに対して、
「湧いてくる感情」だという
基本的な違いを、
2010-05-28『「魂」による「心」の浄化-2 』で書きました。
フワー、ガーン、キラキラというように、
擬音語が似合う感情だと。
「心の感情」が
「頭で描く感情」であれば、
「魂の感情」とは
「命が描く感情」だと。
自分から進む過程前半段階は、
和への行動を、
個の確立において、まずは
「自律的な楽しみと向上」を
しっかりと見出せることを
足場にして、
その共有として向かうことで、
実際のところ
和の行動が
スムーズにできるようになる
過程です。
それによって、
「こんな自分で」「こう見られて」といった、
自分について思い描く感情の中にある、
内実のあまりない・・というか現実的ではない、
自意識過剰や
自己顕示欲や
和から向けられる白い目イメージといった
マイナス感情が
減少し克服される
過程です。
和への行動の
内実を、
「自律的な楽しみと向上」に
しっかりと置くことで、
幼少期の
「和の愛の喪失」を引きづった無自覚の自己中心性が、
重みを減らし捨て去られていくのが、その
推進メカニズムだと言えるでしょう。
(面倒な仕組み説明はやめ・・と書いたもののがっつり仕組み説明になってますね^^;)いずれにせよこの、
「自律的な楽しみと向上を足場にすることで和への行動がスムーズになることで動揺が克服される」というのが、
克服へと
「自分から進む過程」だと言えます。
行動法への
理解に立って、
自分で考え、考えたものに
向かうという
側面です。
魂に導かれる過程一方
後半段階で
「魂の感情」が
役割を
果たすとは、もはや
克服へと
「自分から進む」の
ではなく、
「魂に導かれる」過程だと言えます。
もはや
「自分で考えたもの」ではない、
「自分を超えたもの」が
自分の心の中に現れ、それが
自分を
導いていく。
そんなものとしての
「魂の感情」が、
導く過程です。
だからこそ、
「自分」から始まる
意識つまり
「自意識」の中でやはり
惑うものである、
人の和への、ひいては
人そのものへの
アンビバレントというものを
根本的に消滅させる
変化への力が、
そこにはあると言えるのかも知れません。
そんな
抽象的な話はほどほどに(^^;)して早く
具体的にどんなものかを書いてくれと感じる方もおられるでしょうが、ここで
重要なのは、
何がそうした「魂の感情」というものを「開放」させるのかです。
それは
前半の
「自分から進む」過程での、
和に向かうための
外面の建設的行動法の
確立に、他なりません。
外面行動における「安全」が、内面のより深い「開放」を、可能にするのです。
これは
当然です。
外面行動は
内面のどんな感情にも
揺らがず安全だという
安心感によって、
心の底の固い蓋を
緩めて、
自分の心を
心おきなく開放できるようになるのです。
もちろん
他人に対してではなく、
自分自身に対して。
心を開ければ・・ではなくこれとは
逆のアプローチの
蜃気楼を求める人がやはりおられます。
人に対して心を開ければ・・と。
人に対して心を開いていくのが
和の行動だと
考えるかも知れません。
人への接し方に悩む人に、
心を開いていけばそれでいいんですヨ、心を開きましょうと言う
カウンセラーが
ゴマンといるような気がします。
そうすれば、きっとあなたも愛されますヨと。そうして
「心を開く技術」の探求に
ひた走るのでしょうか。
ハイブリッド心理学は、
はっきりと、
それとは違う道を指し示します。
外面の行動法と
内面感情への向き合いを
全く別々のものにして、
内面感情を人に見せるもの、見られるものとする姿勢を、
捨てるのです。
なぜか。魂の感情を守るためにです。
魂の感情を感じ取るためにです。それが生み出す、
心の浄化と豊かさへの
効果を、
手に入れるためにです。
人に見せるものとした時、それは
かき消され、消え去ってしまうのです。それが
「魂の関係性」(*)です。
*「魂の関係性」について詳しくは以下を参照頂ければ^^。『理論編下巻』 6章 人生の答え-1 -「魂の成長」のメカニズム-の
「魂の関係性」のパラグラフ。
人に対して心を開こうと意識することで
手に入れられるであろうものを
捨ててもです。これを
天秤にかけることは
それほど難しくはないことのように思われます。なぜなら、
人に対して心を開こうと意識することで
手にいれられたものとは、
実際のところ、
自分に嘘をつくことと、
見事に何も残らない人間関係くらいしかなかったことを、
人生で
嫌というほど体験していますので。
もしそこに
アンビバレントがあるのであれば
なおさらです。
人に対して心を開ければと
考える底にある、
不実な傲慢を、
この心理学は
見出すからです。
それは
自分からは愛することなく人に愛されようとする不実と傲慢です。そこに、私たち
人間の
あらゆる心の惑いの根源があるものとして。
これはその
「不実と傲慢」に対する
「罪」の
感情を
「原罪」と呼んで、その
乗り越え克服を
取り組み全体の
道のりの
最終局面に位置づけているものの話です。
詳しくは
『入門編下巻』10章を
参照のこと。
もちろん
ここでそんな話にまでおよぶ場ではありません。言いたいのは、
心を開くというのであれば
人に対してではなく、まず
自分自身に対してだということです。
埋められない穴を開放する例により
ちょっと話が膨らみましたが、
一言でまとめますと、
個の確立の
上にあるものとして、
自律的な楽しみと向上を
足場にして、その
共有として
和に
向かい、
動揺の
根源となる
無自覚の自己中心性にも
はまることなく和の行動が
スムーズにできるようになるという、
外面行動の安全によってこそ得られる安心感の
中で、
より深く自分の
内面感情を
開放する
先にあるのが、
「魂の感情」によって導かれる、
「自分を越えた変化」の
過程だということです。
「一言」にしては長い^^;ここでもやはり、
前半段階の
「自分から進む過程」で
問題が
おおかた消えれば、
それに越したことはありません。
その後に必ず「魂に導かれる過程」が必要だなんて話はできません。そもそも
必要だからそこに進もうと考えて
進むという
形では
進み得ないのがこれです。
自分から進むの
ではなく「魂」に導かれるのですから。
「自分」とは
もはや別ものの
「魂」によってです。
一方
「自分から進む過程」は
必ず必要です。それが
着実化した
安定の
さらに先に、
問題消滅までの
途上に
「こんなこともある」の
一つとして
「魂に導かれる過程」が
訪れるケースもあるだろうということです。
それでも
言えるのは、恐らく、
幼少期の
「和の愛の喪失」が実際
深い傷としてある
ケースほど、
問題消滅までに
「魂に導かれる過程」を
経ることになるのでは、ということです。
それを
直感的にイメージする
表現を言うならば、こんな感じです。
外面行動には、もう
申し分ない安全が得られた。
和の中で、
落ち着いて行動できるようになった。
それでも、埋められない穴が心にある。そんな状況です。
その時、その
心の穴を
外面行動で埋めるのではなく、
さらに開放するのです。そんな
向き合い姿勢イメージ。
もう一つつけ加えておくならば、
「自律的な楽しみと向上」に加えて、
『人生の鬼門4』で触れた
「“自分ごと”ではない高み」を目指す姿勢が
心の足場になることが、
「開放」の深まりを
支える役割を果たすのかも知れません。
外面向け姿勢において
自分を超えたものに向かう姿勢が、
内面向き合いにおいても
「自分」を超えた「魂」へと向かわせるのではないかと。それを
支え、促すものとして。
「魂の望みの感情」そうした
向き合い姿勢の中、
ふとした出来事の折に・・あくまで
外界現実の出来事を
引き金に
引き出されてくるものであり、
基本的に
自分で無理して引っ張り出すものではありません・・
「魂に導かれる変化」を
生み出すものとして現れてくる
「魂の感情」とは、
「魂の望みの感情」です。
「望み」というのは、
基本は
「心」の
「自意識」で描かれるものです。
「こんな自分」になりたいと。多分に
頭で描く、
「心」の
感情です。
それが
「魂の望みの感情」になると、
「自意識」が薄れた「望み」の感情というものになります。
どんな自分という意識は
薄れ、ただ何かに向かおうとする、とても
純粋で一途な感情です。
そして私たちが
日常は
「自分」というものをはっきり意識する意識に生きていることにおいて、
「魂の望みの感情」というのは、
もはや「自分」ではない何か別のものが、自分という存在を使って、自分を生かそうとしているという、
神秘的な、まさに
スピリチュアルな趣きを
与えるものです。
そしてそれを
体験した時、それに
身を委ねる時間を経た時、
私たちは、明らかに変化を起こすのです。もはや
一切の理屈などつべこべ考える必要もなく。
より揺らぎなく、より豊かな、見えない心の変化をした、以前とは別の未知の自分へ。その
引き金となった、
「外界現実」には
何の変化もないまま。それでもこの
全ての「外界現実」が、
輝いているのを感じる。
そんな
変化です。
これは私たちの
普段の意識が
「自意識」を持つ
意識構造になるのと同時に、
「心」がその
大元である
「命」から
分離し、
「命」の持つ成長力から
離れてしまったものが、
「魂の望みの感情」によって
「命」に再び
回帰し、
「命」の成長力が
発動するものだと、
ハイブリッド心理学では考えています。
「和の愛」への魂の望みの感情そんな
理屈はともかく、
具体的には、
「和の愛」への
純粋な望みの
感情として、それが
妨げられた時の
「魂の感情」と、
満たされた時の
「魂の感情」という、まずは
2種類になるという
理解でよろしいかと思います。
私の場合で
スキークラブ参加の折に
体験した
印象的なものなど書きますと、
後輩同士の結婚式二次会に、
盛り上がりの輪に
気後れであまり入りきれなく帰宅した後、
自分の感情に向き合うため
日記に向かっていると心に流れる、その
人の輪の後ろでどうしていいか分からず泣き出している自分のイメージだったりしました。
れは
妨げられた時の
魂の感情で、会社をやめた
2005年頃のことだったか。
あと
満たされた時の
魂の感情として
印象的なものが流れるのを
体験したのが、それから
5年後の
2010年末だったか、
スキー宿の
就寝前に談笑しているときに
ふと心に湧く、
目が潤むような喜びの感情だったりしました。もちろん
表面で
何ごともない談笑を続けながら。
どちらも、そのうち
開設予定の
『島野日記ブログ』(解説ものを大方書ききった後という時期未定の先ですが・・)で、
実際の状況な
ど臨場感込みで
紹介できるかと。
「魂の望みの感情」が起こす不思議な変化こうして
「魂の望みの感情」が
流れるのを
体験した後に心に起きる変化とは、
一言でいえば、
「人の和に入れない自分」を挽回克服しようとした今までの願望が
どう達せられたかというより、
「人の和に入れない自分」という
問題自体がどうあったのかが自分の中で消えてしまっている、とでも
表現できるような
変化です。
少し奇妙なことが起き始めている、と
感じるようなものでもあります。
問題が
どう解決したのかというよりも、
問題がどうあったのかが
薄れている。
ですからこれは
「解決した」という
感覚のものではなく、
「リセットされた」という感覚のものです。
問題がなくなったのではないでしょう。
どんな問題が残っているのかは、
これからの生活の中で、それが
「ある」のであれば、こっちから
探す必要もなくやってくるでしょう。しかし
明らかに、
自分に
何か心の問題があったという事実そのものが、
異質に薄れているのが
確かです。
この
「異質な薄れ方」とは、
マイナス感情が
リセットされるという
側面もさることながら、
「自意識」そのものが
薄れてくるということでもあります。
「自分はどうか」という
意識が、今までは
足につけた重りのように
引きずるものであったのが、
「意識」そのものの中から
消え始めているのです。
これは
当然、
心が
より軽快に動くようになるということであり、
日常の気分もより
さわやかになり、
行動力も増すことでもあります。
そして何よりも、
「自分」と「他人」の空想の中で生きるという
面が
消えてくるのです。
自分がどうあると人の目がどうなるから・・と
実際に起きてもいないことについて
あれこれ悩み惑う面が
消え、
「現実の事実」だけによりしっかりと立脚した、ストレートな生き方姿勢へ。
自分の
「命」が
開放され、この
「現実」へと
向かう。その、
惑いの一切ない「現実を生きる」という
感覚が
芽生え始め、増大し始めるのです。
これは
「生きる力」の
感覚に他なりません。それが、
増してきている。
「看取り」が生み出す「魂の豊かさ」こうした
変化は、
前記事で書いた
前半のような
段階から、
一貫とした
「感情と行動の分離」の
姿勢の中で、やはり
一貫として、
目には見えないような
除々とした形で
起こり続けていると思われるのですが、
自分にこうした
変化が起きていることを
はっきりと自覚するのは、何よりも、
「妨げられた時の魂の望みの感情」が
心の中に
流れた後です。
そこに同時に、
不思議な、というか
少しおかしなことが
起き始めるのです。これは
「和の愛」に限らず、
「愛」への魂の望みの
感情の
全般に言えることです。
それは、
愛を妨げられた魂の感情を
より深く流した時ほど、
その後に、
自分が人生において「愛」に妨げられた存在だという、
心の悩み惑いの一番根底にある闇の感覚が
消え、逆に、
自分が人生において「愛」に満たされた存在だと感じるような、
心の豊かさの感覚が
芽生え、増大していくことです。
これは
単純な理屈として考えると
おかしな話です。
妨げられた感情を
より深く流すほど、
逆に
満たされたように感じるとは・・。
しかしこれがまさに、
「自意識の登場」によって
「心」が
「命」から
引きはがれてしまった私たち
人間の「心の構造」が生み出した、
答えだと
ハイブリッド心理学では考えるわけです。
それは
この心理学で
「看取り」と呼ぶ、
「魂の豊かさ」の
増大の
仕組みです。
「自分はどう」という
「自意識」の
薄れた、
ただ何かに一途に純粋に向かおうとする「魂の感情」において、それが
叶えられない深い悲しみを、それが
尽き果てるまで、心の中で見届けるのです。すると
その後に、
より豊かさを増した「魂の感情」が
心に
より多く流れるようになってくるのです。
それは
この言葉で
表現される
印象の
豊かさの
感覚に他なりません。
「魂に魂が宿る」と。
サイトの
『ハイブリッド心理学とは』の
『5.「変わっていける人」と「心の豊かな人」』の中で出した
後の方の絵のように。
なぜ「叶えられない深い悲しみ」において
ほど、
これが起きるのか。これは
理解できる話です。私たちがまずは
「自意識」で描く
「望み」が
叶うとは、その
うすっぺらい自意識が
現実世界でも
そのまま通り、温存されてしまうというということです。
まあこれは実際
人生の長い目からは、、
望みが叶うこと
自体の
プラス面との
差し引きになる事態でもあります。実際、
生まれてからずっと安易に望みが叶っている人なんて、
後々あまりいい話を聞かないことが多いですね。
いずれにせよ
こんな仕組みもあって、上で
紹介した私の
スキークラブ絡みでの
「魂の和の愛への望み」感情の
体験も、
「妨げられた魂の感情」の
体験の方が
先で、
「満たされた魂の感情」の方が
後に来たという
順番になるのだろうと考えられます。
幼少期の「和の愛の喪失」への答え前記事で触れた、
幼少期に
「和の愛」に支えらる心の安心を得るという
「発達課題」が
損なわれたことへの、
答えの
一つがここにあるのは
明らかです。
つまり、それは
遅まきにでも誰か他人がその人に思う存分の愛を与えてあげることではなく、あくまで
年齢に応じた発達課題があるとして
切り捨てるのでもなく、
その人自身が、自らの心の底に置き去りにされた幼い魂の願いを、受けとめることにあるのです。
その
「魂」は、
何も変わることなくあり続けたのです。もはや
幼い時期は
通り過ぎ、時間を元に戻すことはできないのを
一体どうしたら解決できるのかと、
頭でっかちの心理学があれこれと思案したことなど
全くお構いなしに。
その、
何も変わることなくあり続けた「魂」を、今
大人になったその人自身の
「心」によって、
受けとめてあげるのです。
「個の確立」の上に、
社会で生きることへの
強さと
自信を得た、
「安心」の中でです。
まさに、上で触れた
『5.「変わっていける人」と「心の豊かな人」』の
前の方の絵のように。
私はここに、
怪我などで大きく損傷した脳の機能を、
残りの脳の部位が
代替し始めることで回復することにも似た、
生命の力というものを感じないではいられません。
順調な心理発達において、
幼少期の発達課題が
達成されることが、
成人期の発達課題の
基盤となり支えになることは知られています。
最初の躓きが、
連鎖的に
後の課題の達成も妨げてしまうという
見方とともに。
しかし
逆があったのです。
後の方の発達課題の
獲得が、
先の発達課題における
躓きを、
補うということが、起きるのです。
最終形へこうして起きる
変化とは
当然、
人の和に
自分から入っていくという
行動が、
より抵抗なくできるようになってくるという
方向へと
一貫して
至るものです。
その
最終形では、
『入門編下巻』の
最後の方(P.331)で書いたように、
「人に接する前にすでに親しくなれている」という
感覚によってです。
だからこれで
いよいよ積極的に人の和の中で行動するようになるかと言うと、
ところがどっこい、
そうはならないおかしなこともやはり起き得るわけです。
今度は逆に、
人の和そのものが、
もうあまり心を惹くものではなくなってくる。
それが
私の場合でした。これも
徐々に、かつての
絶望的に惹かれる魔法の宝のように見えたものから、やがて
日常の魅力的な食事のように、さらにやがて、
自分はどう惹かれているか、自分にとってどんな価値があるものかと、
改めて首をひねるようなものへ。
これも
おかしな話ではありますが、
心のメカニズムとしては
理解できる話です。
人との親愛が
心で深く妨げられているほど、
親愛の感情が
飛び交う場である
人の和というものが、その
挽回のための得がたい高価なお膳立てのように、当然
心に映るでしょう。もし
表の意識が
「あんなもの」とその魅力を否定する思考を回しているならば、
血が攪拌されるような異常な生理的刺激感覚としても
体験されるものとしてです。まこれは
細かい話。
それが、
自分から人との親愛を築ける心の基盤を
十分に持つにつれて、そうした
「できあいの人の和」の
「誘引」が、
次第に消えてしまうわけです。
上に紹介した私の
スキークラブ絡みの
「魂の望みの感情」の
体験の
その後の推移としても、
「目が潤むような喜びの感情」なんていいながら、
その後は
よりしっかりした絆の感情かというと
そうでもなく、
かなりあっけらかんとした感覚だったりします。
結局、
「和の愛」という
心のテーマそのものが
終焉に向かい、あとは
個々人との絆を
どう持つかだけになってきたということなのだろうと。
ですから、まさに全てがリセットされた「未知」からの一歩になるわけです。そもそも今の自分にとって、どんな場がどのように魅力あるものなのか。自分はその行動をどうできるのかと。かくして
私の場合も、
スキークラブについて言えば、今までは
極めて心が健康な老若男女の大勢の華やかな集まりである
その場にいられる魅力に、
群馬に移ったことで
多少疎遠感が出てきたものの、
いつまでも参加し続けようと考えていたのが、
変化の兆しを迎えており、
日帰り楽チンで行ける
近場に比べ
合宿地の白馬八方は
かなり遠いこともあり、
参加することにあまりメリットを感じなくなってきており、
今シーズンは
全部見送りの
気配。あるいは
もう参加することはないかもーとか思っている
今日この頃です。
まあ
私の場合
根っから単独行動を好む性向だというのがどうも
結論です^^)v
(←ブイマーク余計^^;) これは
もう人それぞれです。
どうなるのが最終形だと言える
「形」など、
何もないのです。
私だって先はまた
わかったもんじゃありません。
一方
今年の元日は、
兄家族も
妹家族も
先方の実家に出かけ、こっちは
父と
私がそれぞれ
一人暮らし。そのままだと下手すると
一人で過ごす元日の夜とは
わびし過ぎると、
父と飲みながら食べるようこっちから運んだ次第。
こうした
「自分なりの行動」というものの、
私自身の人生での
変遷への
感慨というものを感じたのが、実は
このテーマを書こうと思った
きっかけです。
ということで、
結論はこうなりますね。
人の和への
アンビバレントの
消滅とは、単に
マイナス感情部分が
減るというの
ではありません。
人の和に
自分がどう惹かれるのかも、
同じく変化するのだということです。
ですから、
最終形とは、
最後まで、
「未知への成長」なのです。
常に、
新たな「未知」に出会い、その中で、
「自分なりの行動」を
見出していけるようになる、ということです。
そのために
今何から始めるべきかの
一歩一歩も、
最初から
最後まで変わらない、
「感情と行動の分離」の
姿勢です。
これは
前記事の
終わりの方で、その
一貫した姿勢について述べた通りです。
歩み方に
違いはありません。その先に
『詳細マップ』で
絵にしたような、
道のりを
進むごとに変化してくる
風景の話として、ここで説明した
内面の転換も
あるだろうということです。
まず
重要なのは
同じ一歩一歩の歩みであり、
その先に
もし見えたらそこに突き進むがいいというものとしてです^^。
まずはこれで
問題消滅までの
流れは
大方完結になります。
実は
あと一つ、
外面行動法での
「自分から進む」面と、
内面向き合いでの
「魂に導かれる」面の
合体型として、
「抜け出し転換」がありますので、
次の記事で
手短に書いておきましょう。あと、こうした
転換パターンを
まとめた表など作ってありますので載せとこうかと。
それとあと
大分遅くなっていますが
コメントで質問が入っている
ケースへの
アドバイスなども書いて、
このシリーズを締めくくろうかと^^。
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-10・まとめと補足
2012-02-07 Tue 16:08:08
読者広場で以下に
コメント入れてあります^^。
『話せる人になりたい』 irohasuさん No.435 2012/01/26目先の感情の良し悪しに
踊らされることのない
人生の生き方への
基本指針として、
「王道を学べ」という
アドバイスなど^^。
では
最後の
補足です。
補足というにもやっぱ
ちょっと長いですが^^;
内面転換のまとめでは、
内面転換について
まとめるにあたり、
思い浮かんだものを
表にしたものなど作ってありますので
下の方に載せておきます。
当初はまずこれを出して、それぞれについて
ごく手短に箇条書き程度に済まそうかと思っていたのですが、結局
本格解説ものになった次第^^ゞ
表の
要点を
手短に書いておきますと、
5段階があるという話になります。
1.「深刻形」段階ここでは
心理メカニズムの
要になるものとして、
「自己の抹殺」と
「硬直した和のイメージ」の
悪循環を
表に書いています。
前者が
起きていると
後者が
生まれる傾向があり、それが
「和にそぐわない自分」という
自己否定を生み、それが再び
「自己の抹殺」に
そそがれるという
悪循環です。
(
その8の
「硬直した「和の理想」イメージ」の
節参照)
「硬直した和のイメージ」の
下で、さらに、
「現実の人の和」が
皮相な演技の寄り合いだという
軽蔑嫌悪や、
思いやりとして自分も招き入れられるべきという
観念からの
「除外される憎悪」が生まれるとも考えられます。
まあ
この段階とは
心が多臓器不全のような状態であり、
どこから手をつければいいか難しいような状態ですが、まず
一番根底になるのは
自己放棄を
脱することであり、その先に
「愛の成長変化」の学びの上
、「硬直した和のイメージ」が生み出している
動揺を
解きほぐした上で、
自分として何を目指すかに
向き合う、というのができれば
理想的なアプローチのように感じられます。(
その6)
2.「深刻形抜け出し」から次の「和への行動開始」までの中途段階「深刻形」から
抜け出しただけの段階というのは、そのままではすぐ
和への行動の
改善向上に
向かうのは難しく、
「日常生活と人生全体の自己能動化への取り組み」というのを置くことが
やはり必要になると考えられます。
この
一番基礎の
実践は、
「自分への論理的思考」になるでしょう。
(
その7の
「生き方の全体を自己能動的に」の
節参照)
「深刻形」はまず言って
「依存の愛」「受け身の愛」の
中でどっぶりと生きようとしている心の状態が
背景にあります。そこからまず、
自分の足で立って歩き始めるという、
「心の自立」という
大きなテーマがやはりあります。それが
この後の
全ての
克服成長過程への
前提足場になります。
「心の自立」に立った
「感情と行動の分離」の
姿勢という
基本において、
内面側の
「開放」の
姿勢が
この後の
克服成長過程にとって
決定的に重要になります。
「つるむ相手確保」から「個人ベース行動」へここでちょっと
思い出した話など入れておきますと、
かつての自分が、
「一緒につるむ相手を確保する」という行動法の中にいたのを思い出します。
オレとオマエ、ワタシとアナタは組む時は互いを最優先する間柄、ヨロシクね!というような
暗黙の了解を置ける相手を見つけて確保しようとする、
人の和のいわば母集団の中における
行動法です。この
「人の和の母集団」としては、
学校の学年やクラス、
社会人になってからも含めた
各種のサークル集団などが
代表的です。
これがかなり
心の健康を損なったものとして働きがちであるのを知っておこくとは、
心の健康と成長を目指す上で
無駄ではないでしょう。
まあ
中学生くらいの
年代では、
最も親しい友人というのは
多少ともそんな感じになるのは、そうなる
特有の年頃という
別枠で考えてもいいだろうものとして。また
成人前までくらいの若い時期に、
本当に仲が良くて、必ず行動を共にするような親友ができることは、
人生の一つの豊かさになることを
否定する必要はないでしょう。
問題は、
そうした相手を必要とする衝動が先にある、という
ケースです。
親しくなり始めた相手をそうした「親友願望」に当てはめる、あるいは、
相手と親しくなるとは、そうした間柄になることという硬直した姿勢です。
それによって、
本心からのものではない過度の親愛態度の振る舞いと、
その嘘への不信感が
互いの間に流れる飛び交う感覚に、まさに
対人アンビバレント感情・・いや
それを超える精神的混乱が生まれやすいのです。
私自身を振り返りますと、
高校時代の
対人恐怖症から抜け出した
「躁の時代」の中で、
そうした行動法全開の先にまさに
精神的破綻をきたしたのが、そこから
「心の旅」へと歩み出す
その後の私を決定づけた、
大学1年終わり頃の
出来事でした。
(『悲しみの彼方への旅』P.39前後)言えるのは、そうした
「間柄の約束同盟」(^^;)形の親愛行動というのは、
人生の生き方や
社会での行動法を
意識する
時が
訪れた時点で、もう
別れを告げるべきものと考えるのが
正解だということでしょう。
全ての人が基本は
別々の人生の道にある上で、
タイミングが合えば
行動を共にすることも歓迎するという、
適切な距離感のあるオ-プンな交友行動法を
学びたいものです。
青少年向け人生論(つまりそれ以後には役立たない人生論?^^;)では
「互いを見捨てないのが親友」といったことを言うでしょうが、
あまり真に受けないのが
お勧めです^^;
その言葉が感動を呼ぶ場面で
その言葉が出るのはまあいいでしょうが、
一般的な行動法として考えて
役に立つものでは全くありません。
人生の生き方を意識する時が来たのであれば、
学びたいのは、
相手によって変わることのない一貫した行動法です。
ハイブリッド心理学で採用している
「行動学」は、まさにそうした
行動法として
3種類のものからなるものです。(
2010-05-18『3つの「行動学」』など)
「組む相手を得る焦り」・・それと
似たもので、
「組む相手を得る焦り」というのが、
「自分一人が浮く恐怖」というのが
膿のように流れた時に
どうしても起きがちです。
これは
ガソリンの中に混じる
不純物のように、多少その
残骸があれば
時にそのようにうごめいてしまうこともあるのが、結構
後の方の段階になってもあるというのが、
私の経験からは言えることです。
冒頭で触れた
読者広場のご相談も、
そんな面が多少含まれていると思います。
これへの
向き合い方をさらに
比喩で手短に言うならば、
ガソリンの中に混じる
不純物のように、
完璧にそれがなくなったきれいな状態までもっていくのも
簡単ではないとして、まずそれが
ガソリンの中に混じる
不純物の方であることを
しっかりと分かることからです。それが
純正のガソリンの方だと勘違いすることなく。
そう
勘違いして、
ガソリンを
それで満たしていきながら走ろうとすると、
エンジンが
壊れてしまいます。
次の段階からが、
本来の純正のガソリンで走るというのが
自分でも分かってくる
段階です。
3.とにかく外面では和への健康な参加行動ができるようになる段階「個の確立」における
「自律的な楽しみと向上」を
支柱に、その
共有を
描柱とする
コンパスで
描く円として(
1/20『「和の行動」とは「個」と「愛」のコンパスで描く円』)、
和への
健康な参加行動ができるようになる
段階です。(
その7・より深い学び)
注目願望と
緊張不安などの
チグハグな感情が、とにかく
「感情と行動の分離」の
姿勢で
内面で受け流す中で
減少していくのが、
克服成長の
主な面となる
段階です(
その8・内面の転換-前)。こ
うした感情はもちろん、
最終形段階までは
徐々に薄くなりながら残ると考えておくのが
正解でしょう。
「心を開いている姿の圧倒魅力感」この段階あたりで、
説明の中で
触れていなかったものが一つあり、
「心を開いている姿の圧倒魅力感」というものです。
これは
内面で
ただ流し向き合うこともあるだろうものとして、例により
ちょっと話を膨らます話題ですが、
印象がかなり強かったので書いておきましょう。
これは
和の「場」が
魔法の宝の部屋(^^;)のように感じる感覚や、
魂の純粋な和の愛への望みとは
また別のもので、
心を開いて人に接している人という個人の姿が、その
様子において
何か圧倒的な魅力であるように感じる感覚です。
私の経験ですと、
「どうしてそんな風でいられるのだろう」と
ただ引きつけられたり、
電車の喧騒の中で
そんな姿を見かけた時、
一体どんな話をしているんだろうと
意識が引きつけられたものです。
そこには、
心における何かを持っている人がいる、という
強烈な感覚があり、その
感覚の強烈さにおいて、
私の自己分析経験の中で
しばしば登場したものです。
そこには
真似ようとした時、まがいものになって消えてしまう輝きがある、という
目線で、
自分が何に惹かれているのかをただ心に刻むのが
良さそうだ、とここでは
手短に書いておきましょう。
ちょっと言葉足らずですが。
『島野日記』ブログを始めたら
この手のが
沢山出てくると思いますので^^。
一方、
これを目標にして、
自分も
あんな風に心を開ける人に、と、その
言葉仕草など外見様子だけの「習得」に駆られるというのが
ありがちで、これが
愛を形ばかりで追求することで逆に愛を見失う罠につながるものだと言えます。
『入門編下巻』の
「9章 愛への道」が
そうした話を展開したものになっていますので^^。
(P.284前後)こんな印象のものだったと感じます。
西に向かって走ってる時に、時折
東を見ると異様に明るい月が見えた。そんな
イメージ。そして
あらゆる取り組みと
全く関係しないまま・・
向かうのは西なのですから・・、
ゴールした時、
消えていたもの。そんな感じです。
経緯を振り返るならば、
全くつながりは見えないまま、
「魂の愛への望み」の感情を
流す体験ごとに、それは
薄れていったということになると思います。
自分の「魂」が豊かになっていくという感覚(
その9・内面の転換-後)と、
まさに反比例しているようにです。
4.和への外面行動に満足と安定を見出す一方で埋められない内面の穴を「魂による導き」が埋めていく段階
5.自分なりの行動法の定着調整へと向かう段階終わりのこの2つの段階は
前記事の
その9・内面の転換-後参照^^。
「抜け出し」の転換最後に、
外面行動法の
改善向上として
「自分から向かう」過程と、
内面世界での
「魂に導かれる」過程が
合体したような、
「抜け出し」の転換というのがあることも記しておきます。
表では
4番目の段階の中に書いています。
これは
このブログそして
歩み方ガイドの
表現で言う、
「受け身意識の闇の川」に
一度はまりそこから抜け出るという転換に他なりません。
人の和に
惹かれ、なんとかその中へと行動するのですが、
ちょっとした行き違いや中途半端な状況の中で、まあ一言でいえば
和に入ろうとした自分の心の不都合が
自分の心にさらけ出されると同時に、
そのまま和の中にいる行動も取りにくく、
苦しい心の状態になるものです。
この
「自分の心の不都合」とは、
自分を偽った自己操縦のストレスが
自分自身に明らかになることであったり、
前記事では
「ここでそんな話にまでおよぶ場では」と触れた
「原罪」、つまり
自分からは愛することなく人に愛されようとした自分の不実と傲慢への自己嫌悪感情だったりします。これは
魂が抱く自己嫌悪感情だと言えます。
こうした状況で、
和に惹かれその中にいる自分の存在のあり方の全体を、問い直すのです。
「自分に嘘をついて愛することはできない」という
真実の言葉の下で。
そこに、
受け身に愛されることへの望みから始まった意識世界からの、
トータルな抜け出しというのが起き得ます。
実はこれが
一番、大きな心の変化が得られるものです。まさに
脳が一枚脱皮したかのように。
この
「抜け出し転換」が、
ハイブリッド心理学の
歩みの
全てが
凝縮したものであり、
さまざまな人生場面で起きるものの
一つのバージョンが、
和への参加行動にもあるということになります。
2011-10-30『「悟り」と「未知」-6・乗り越えるべきもの』で
私の日記など紹介した、
「脳の騒がしい皮が一枚はがれた」と感じた
転機なども、やはりこの
「抜け出し転換」ですね。
この
「抜け出し転換」は、
取り組みの歩みの
最初の方から
最後の方まで、
全段階においてあり得ます。そこで、
後の方の段階になるほど、
何が起きているのかが自分自身で分かるようになり、
抜け出した後の、
自意識そのものが薄れ惑いがなくなる、「生きる力」の増大(
その9・内面の転換-後の
「「魂の望みの感情」が起こす不思議な変化」の
節参照)が
はっきりと感じられるものになってきます。
抜け出すその瞬間の前までは
きわめて苦しい状態になる体験ですので、
なければそれに越したことはありませんが、実は
得るものもそれに増して大きいものとして
こんなものもあると理解しておいて頂ければ^^。
ということでようやっと
このシリーズの説明完了^^。
はあ~~っと一服のため息^^;あと
コメントで質問頂いたものへの
アドバイスを次に書いておきます^^。
治癒成長の段階ごとの要点まとめ 段階状況 | 内面要因 | 対処 |
自己の抹殺 ↑ ・自分の見捨て ・過度の受け身姿勢 ・誤った取り組み姿勢 | 硬直した和のイメージ (これが再び 自己の抹殺の原因に) | 「自分への論理的思考」 の習得の上で、心が健康で 自立した世界の和の行動法 をとにかく学ぶ |
・「深刻形」からの抜け出し ・日常生活と人生全体の自己能動化への取り組み ・「つるむ相手確保」をやめ「個人ベース行動」へ ・「感情と行動の分離」により外面は建設的行動の一方、内面の開放へ |
「自律的な楽しみと 向上」を足場に和への 行動の開始 | ・チグハグな衝動 (自己顕示欲+緊張) | ・「感情と行動の分離」で やりすごす |
・心を開く姿の圧倒魅力 | ・自分が何に惹かれて いるかをしっかり把握 |
「未知への成長」 の体得 (抜け出し・魂の感情) | ・自己操縦ストレスの 自覚 | ・「自分は何を望むのか」 「嘘をついて愛せない」 を問い再び向かい直す (抜け出し・膿と原罪克服) |
・「人の和」への 希求の魂の感情 | ・満たされる時間の享受 ・「看取り」 |
最終形(永遠の命 の感性・怖れの消滅) | 受け身の誘引と抵抗感の双方が減少 →自分なりの行動法の定着調整へ |
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-11・質問ケース
2012-02-09 Thu 09:04:23
ではこれが
このシリーズの
正真正銘ラスト記事ということで、
コメントでご質問を頂いている
ケースへの
アドバイスなど書いてみましょう。
1/5のその2に頂いたコメントで、
1か月後と
大分遅れましたが、どんな
アドバイスをする時も
じっかり検討時間を持ってからの
主義ということでご容赦^^; また
踏まえるべき材料がこれで大方出ましたので^^。
こんな
ご質問ケース。
あまり親しくないが顔見知りの他人と道ですれ違う時、妙な惑いが生じます。
その惑いが嫌で、そのような人がいるところには近づきたくないと思うようにさえなるに至っています。
ここにもアンビバレントな感情があるのかもしれません。
ただ、視線恐怖や上記状況に取り組むことができないのであれば、現実にどういう行動をとるのが適当であると島野さんは考えますか?
たとえば、視線のやり場に困る。その時に、視線をどこにおいてどうやり過ごすか、また、あいさつはするのか気付かないふりをするのか、などといったことについていい知恵はないでしょうか。
小さな問題にも思えますが、現状として、苦しい状況です。
当面、内面に解決ができないのであれば、何か苦しさの軽減方法はないものか。
いかがでしょうか。
これについて、
『進み方流れチャート』(右上の便利リンクより^^)などで説明の、
「右左右の3段階ハンドルさばき」という
基本的な進め方に沿った
アドバイスをしたいと思います。
検討の進め方まず
右ハンドル1。
健康で心が自立した世界での
建設的な思考法行動法です。
ここで
重要なのは、
「感情を無視して理屈で行動する」のかという
誤った理解ではなく、
内面の成長にも向かう、内面の感情も一つの検討材料にする、建設的行動法の答えを知ることです。
内面感情を無視した、
杓子定規の行動法の答え、ではなく、
内面感情の一時的な良し悪しに踊らされて
「こうすればいいのでは」と生病法で考えた答えではない、
内面感情をも健康と成長に導く行動法の答え、を
知ることが
大切です。ちょっとややこしい?^^;
そのように、
内面感情まで多少考慮したものとして、
最初の検討基準となる外面行動法を
学びます。これが
右ハンドル1。
そこで言う
内面感情の考慮法つまり役立て方が
すんなりできない、といった
内面妨げ状況がありそうであれば、
それは何かと
内面へのじっくり向き合いを行う。これが
左ハンドル。
その
左ハンドルを経て
再び外面行動に向き直してみるのが
右ハンドル2になります。
そんな
検討手順として、ここではまず
最初の右ハンドル1として、
行動法の
基本的な考え方を主に書いてみましょう。
まずは「挨拶の行動法」の問題まず、
書いて頂いた状況で、
何が自分の課題なのかの
考え方から
学ぶことが大切です。
目先の感情の良し悪しをどうこうしようという焦りに
踊らされることなく。
自分を、
この社会で自信を持って生きていけるよう成長させるために、
何を課題としてその答えを学ぶかからです。
するとここでは、
どんな場面ではどんな人にどんな風にという、
「挨拶のマナー」もしくは行動法の方が
重要な課題テーマであって、それに対し
「視線のやり場」というのは
誤差程度のものでしかないと言えると思います。
まあくまで
「社会行動の習得」としては。
で、はっきりと
「挨拶の行動法」について考えるなら、
「顔見知り」(“あっあの人知ってる”と感じる)程度で
道ですれ違うのなら、
まず挨拶は必要ありません。まあ
隣近所とか、
「良く顔を合わせる相手」(“あっあの人知ってる”もなにも周知の相手)程度以上になってくると
「こんにちは」とか軽く声をかける程度の挨拶をするが
望ましい。
加えて、前者の
「顔見知り」程度の場合、もし
その人と
さらに親しくなりたいのであれば、
はっきり挨拶するのがいいでしょう。
そうでなければ、まず必要はないでしょう。
ここに、
「望みに向かい現実に向かう」という
心の成長の
歩みとして
「自分はどうしたいか」を
問う部分が出てきます。
「視線のやり場」動揺の糸口そのような
右ハンドルさばきでまずは
順調に実際場面に向かうことができれば
それに越したことはありませんが、それに
すんなり合わない感情動揺があるのであれば、
それは一体なんじゃらほいという
内面向き合いを
検討する必要が出てきます。これが
左ハンドルの部分。
考えられる原因として
思いつくものを
2つほど書いておきますと、
1)一般的に
若い年齢ほど、
不特定多数との関係可能性の感覚が大きく、また
人との関係において
表情仕草などの感情表現のプラスマイナス印象の役割が強く感じられる。
これが
年を重ねるごとに、というか
人生経験を重ねるごとに、
自分が関係を持つ相手というのは
家族、近所、職場というように
固まったものになってくる、というか
不特定多数への関係可能性という感覚がしぼんで(^^;)くる。
道で
他人にいきなり
「もしやこの人が運命の人だったら」なんてトキメキはもうよーせんようになってくるという感じで。また
表情仕草なんてものより、一緒に何をする相手かという、はっきり目的意識ありきの意識になるというように
変化してくるのが、まずは
「順当」です。ま
視線をくれるかどうかより、
金をくれるどうかを気にするというように^^;
どっちがいい悪いという話でもなく、まず
世の他人全般を、
若い自分と同じ感覚で自分の視線を気にすると固定して考えてはいないかが、
まずは検討できることかと思います。
2)先の
その10で触れた、
「過度の親愛態度の振る舞い」というのものに、
もし挨拶するなりの関係行動に入るとなると
駆られる傾向があると、書いて頂いたような
惑い抵抗が起きやすくなることが考えられます。
過度の親愛態度と
冷淡な無関心との
中間形というのが良く分からないと感じる人ですね。すると
中途半端な顔見知り程度というのが、
かなりストレスになるのは容易に想像できることです。
これはその話で触れた、
「適切な距離感のあるオ-プンな交友行動法」というのを
どう習得するかが、ひとえに
克服への原動力になると思います。
いずれにせよ、まずは
「気にしなければいい」ではなく、
自分が何を気にしているのか、気にし過ぎているのかを、しっかり把握することからになると思います。
その上で、
上記1)のような
固定観念を捨てることを意識することで
多少軽減できればいいとして、
根本的には、
上記2)で指摘のように、
その場面での動揺そのものに取り組むというより、
生活と人生全体でのオ-プンな対人行動の幅を広げることが、
自然とその
克服につながると思います。
糸口レベルから全体レベルへこれがまずは
糸口レベルの
左ハンドルつまり
内面妨げへの向き合いと、それを受けた
右ハンドル2つまり
外面行動への向かい直しになります。
そこにまた難儀を感じる場合は、
「感情を鵜呑みにしない思考」とか
「心の自立」とか、
心の成長の
全体テーマが
本格的な取り組み材料になってくる、という
段取りになりますです^^。これが
『詳細マップ』(これも右上の便利リンクより^^)で示しているものですね^^。
いずれにせよ
すんなり行かない場合は、
成長に向かう方向性をしっかりと基準にして、自分はそれをどう理解納得できるかという
「立ち位置」によって、
より正確な内面課題が見えてきますので、また何かあれば何でもご質問頂ければと思います^^。
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