病んだ心から健康な心への道-7・「抜け出し」の情景
ここでは、
「闇の川からの抜け出し」において、
実際抜け出られる時に
何が見えるのかを説明しましょう。
「抜け出し力」という
目標に到達した先に起きる、
異次元の未知への変化の
映像ということになるでしょう。
少し長いので
ステップをここに列記しておきましょう。
1)自分を演じられている自分
2)「心の力み」の中で狂い始める歯車
3)心の闇の歯車の正体
4)抜け出し
5)未知の自分へ
まあ
考えようもない様子になると思います^^; どんな
道のりの先にそんな
未知の世界が訪れるかを、このあとじっくり解説して行きますので^^。
心の動きは
プライベ-ト場面を想定して書いたものですが、
仕事場面などでも、
起きることの構図は一緒です。
「抜け出せる」時に見えるもの心の安定と豊かさ、そして清らかさにおいて
異次元の未知へと成長そして成熟していく歩み。
それは、
「望み」に向かい、一度
「受け身意識の闇の川」に落ち、そこから
抜け出す体験を、
一つのサイクルにします。
そこで私たちは、
「一皮むけた」新しい自分に、出会うのです。
ここでは、そこで
一体何が起きるのかを、
もう十分に「抜け出せる」ような心の強さへの成長を済ませている場合の流れで説明したいと思います。
先の
「3本の道」においては、もうほとんど川に落ちることなく、せいぜい
足が水面に少し触れてしまう程度に、
闇の川を
飛び越えるような時に、心に起きることがらです。
Aダッシュという感じかなと。
それは
私自身、かなり最近になってようやく、
何が起きているのか、ほとんど動揺することなく見ることができるようになったものです。
こうなっていたんだ・・という感慨の中で。
1)自分を演じられている自分コマの振り出しは、
「こうありたい自分」を演じることができている自分です。
これも
成長の過程で、
新しい次元のものに入っています。
さらに広く、誰とでも親しくできている自分・・。
2)「心の力み」の中で狂い始める歯車それはもうこの段階では、
かなり自然なことです。
心の土台は、事実
誰とでも親しくできるようになっています。まあ私の場合は、
『悲しみの彼方への旅』で書いた
「人生見出し体験」以降はそんな感じです。
しかし言えるのは、そこからも引き続き、
生涯続く未知への成長は、
同じスパイラルの中にあることです。
それは、そうして
「うまくいっている」時、まさに
「こうできている自分」という自意識があるのを自覚できれば、
それに対応して、それ崩れるのが成長の節目だと、この過程を繰り返し体験すればもう自覚できることとしてです。
つまり、それはもう
薄氷の上のストレスという感じにはならなくとも、
「心の力み」の成功にもとづいていた部分なんですね。
「心の力み」であることを
自覚できず、
自然な自分のはずだと感じられたことにおいて、それが
「心の力み」の成功なんです。
やがて
そのままではいられなくなる時が訪れます。
何か嫌な感じがしていくるのです。その
「うまくいっていた」相手に面することに。
世の人が
人間関係に悩む原因として
ポピュラーな、
「生理的な嫌悪感」の色合いが、そこにはあります。だって、別にそう感じる
特別な理由があるわけではないんですもの・・。
3)心の闇の歯車の正体そして見えてきます。ごく最近の私では、
「こうなっていたんだ・・」と感慨するような映像として。
本当の自分ではない自分を演じるのが、とても嫌なのです。
そして、そんな嫌なことの引き金になる相手に、やはり嫌悪感を感じてしまわざるを得ないのを感じます。相手には
何の落ち度もないのですが。
あるいはそれは、
現実にははっきりと示されていなくとも、
「好かれるための無理難題」を押しつけられている、という感覚でもあります。
世の人は、これを
現実の圧力が相手から自分に向けられているものだと思い込んで、その
圧迫の正体の解明と戦闘(^^;)に明け暮れるようなものとして・・。
そして
心の歯車が変な方に回り出しています。
相手に嫌悪感を抱く自分への、
相手からの白い目が、空想の中で返ってくるのです。
ここではっきり、この事態が
人に「苦しみ」を感じさせるものであることが分かります。
自分は、相手への嫌悪によって、相手から嫌悪されるのです。
4)抜け出しこの
内面動揺の事態におよび、
「これをどうにかしなければ」という思考が働き始めます。それが
さらに事態を悪化させることを、私は今までの経験から十分に分かっています。
「相手への嫌悪感を率直に言って話し合ってみるのがいいでしょう」といった
アドバイスをするカウンセリングをしばしば見かけますが、
最悪です^^;
一番おだやかな方法は、
相手との接触を避けるという話になるでしょう。私自身の最近の体験でも、ここまでが
「自動思考」として動く部分です。
実際そうしたところで、
相手を避ける自分の態度に、
相手から不信が返ってくるという空想までが、自動的に動きます。
私の場合は、ここで「意識が停止」します。あるいは、「意識が看取られていく」という心境が、私の心の中で起きます。
全てが心の中の世界だけで起きていることなのです。ただ、立ち止まって、それを見つめるだけです。何の答えも出ません。頭の上に
鉛筆でモジャモジャと煙を書いたマンガの構図(^^;)の、すこし
「こげた」気分の中で、そのまま時間を過ごします。
寝ます。目が覚めます。全てが消えています。そこには、新しい自分がいます。5)未知の自分へまたその相手に会います。するとそこには、
さらに気さくに会話している自分がいます。
はっきりと
変化していることがあるのが分かります。
「こうあれている自分」という、自意識が消えていることです。それは同時に、
特別にその相手個人に近づきたいという衝動自体が、
消えているということでもあります。
「こんな自分」になることを通してです。
そして、
相手個人をとくに意識しない、他人全般への愛着感が、一歩増えています。
「黄色の水」の中でこの道を知らない人の場合、
「今まで通りにはいかなくなった」段階で、
悪もの探しに心が転じてしまいます。
「悪いのは誰なのか・・」と。
そして、
自分がニセを演じていたことについて、
自分を叩き始めるのです。その
痛みが、
事態全体の苦痛度を増し、それが再び
悪もの探しに合流するのです。
これは、
「受け身意識の闇の川」の、
「黄色の水」つまり
「正しさ」の水のせいです。
「病んだ心から健康な心への道」において、この「黄色の水」からの抜け出しが、最大の課題になります。それへ、
「最初の一歩」からの、引き続きの
「感情と行動の分離」の姿勢の先に向かうのが、これから説明する
「本格的な歩み」になります。
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しまの
[
編集] |
URL |
2010-03-04 Thu 17:06:02
これは今日『島野自身の治癒過程を振り返って-1』
http://tshimano.blog110.fc2.com/blog-entry-79.htmlで書いた話にも関係しますね。
つまり我々は、
「自分」と
「他人」について描いた
「空想」を支えにして、「気持ちの演技」をしている面が多々あります。
そこで
心の底に「実はそうではない自分」という否定的感情を置き去りにしている場合に、
「空想-現実」という境界がやや不明瞭な2つの世界で
ギャップがないほど、
「気持ちの演技」の演技に成功し、ストレスを感じなくなります。
その場合に、
「気持ちの演技」の底にある
「嘘のほころび」を刺激するような、何かの特徴(たとえばちょっとした真顔で目を見る仕草や、乱暴な口調など)を持つ他人に、
「生理的嫌悪」が起きるという
心理メカニズムになります。
ただし、そうした
心理メカニズムへのメスを入れること自体は、
克服へのアプローチとしては
全く不毛であり、不要です。
答えは、次の記事
http://tshimano.blog110.fc2.com/blog-entry-75.htmlで書いた、
「一人遊びの楽しみ」の感覚を手にして、もう一度その場面や相手に臨んでみることです。それによって、
多少の演技は込みでも自分が入っていくべき場か、それとも
避けるのが賢明な場であるのか、心が自然と答えを出すと思います^^。
れんか
[
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URL |
2010-03-03 Wed 21:10:20