『前・中・後』の3部作で収めたため、ちょっとこれが長めになりました^^;「怖れ」と「他人関係のせばまり」そして「善悪」へ「他人依存信仰」が
背景となって起きる
心の動きの、
残りのパターンを見ていきましょう。
それは
「怖れ」という
分かりやすい副産物と、少し
わかりにくく、そして
特有な
対人関係の「せばまり」と、
「善悪」の思考という
根深いものへと染み込んでいくものになります。
「怖れ」「怖れ」が、
解決不可能なものとして
心を揺り動かすようになるのは、言うまでもありません。
それは、
「何でもできて」自分の最後の心の支えとなるべき「他人」から、自分が
見離され、
見捨てられ、
見下げられ、
怒りを向けられることへの、
恐怖です。
それは
この人にとって、
「破滅」を
意味します。
「人の助け」が
「最後の心の支え」であり、それを
失うのですから。
ですから、
「他人依存信仰」を
あまり持たない人からは、
「別にそんなの大したことないじゃん」程度にしか受け取られないような、他人からの
ちょっとした批判の言葉などが、この人にとっては、
人生の破滅の訪れであるかのような
法外な怖れの反応で、受け取られることになってしまうわけです。
「恥」「恥」の
感情も、
「他人依存信仰」に
特徴的です。
「何でもできる他人」と、
同じように自分も振舞えなければならないと、感じているからです。
これが
「他人依存信仰」を
あまり持たない人の場合は、
「何でもできる他人」なんて感覚は
持たず、
人それぞれの長所と短所を見ることのできる目を
育てていけますので、
「自分も何でもできなければ」という感覚も
持つ必要がなくなります。
それぞれの人が、
できることをすればいいのです。その、
助け合いです。
さらに、
「ありのままの今を原点とした向上」を重視する
「自己能動の価値観」に立つと、
「今の原点」が実際どんなに
人よりも客観的に劣ったものだったとしても、
そこからの向上へと前に向く姿勢そのものに、
大きな価値を感じるようになってきます。
これはもう、
何かができないのが「恥」だなんて
感覚は、
微塵もなくなるものになってくるのです。
内面に流れる
「恥」の
感情を、
「自己能動の価値観」によって、
打ち破り、乗り越える。
これが
大切な姿勢であり、
日々の実践です。
人生でそれを
徹底して実践してきた
私は、
とんでもない「恥知らず」です^^; えへへ^^ゞ
(←この笑いはちょっと不要ですねアハハ)「分かってもらう」は「魔法の助け」へ「うつ病」の人が訴える
辛さや
苦しみの
核心、つまり
「主訴」とも言えるものが、
ごく普通に健康な人には
しばしば理解不可能になる
原因が、
「他人依存信仰」にあると私は感じています。
つまり
この人は、
自分の辛さ苦しみが人に
「分かってもらえる」ことで、
全て良くしてもらえるという
「魔法の助け」が訪れるという願望感覚の中にいる。
そう
解釈すると、その
理解しがたい様子も
理解できるようになる。そう感じられるものがしばしばです。
もちろんそんな
「魔法の助け」など
誰も用意できません。
その結果、
「うつ病」の人の
自分の辛さの訴え方と、
回りの人々、そして関係する医者などとの
会話が、しばしば
かみ合わなくなります。
本人は
ただ辛いのだと、そして
自分は駄目なのだという気持ちを、訴えます。
回りは、
それはいいから、もっと具体的に何がどう問題なのかを、聞こうとします。それに対してしか
助けの手を出しようもないからです。
「リストカット」などの
「自傷」の行為も、
膨張した悪可能の挙句という側面もあるでしょうが、しばしば、
ここまで苦しいのだと示せば
全て良くしてくれる人の助けがくる・・といった
空想感覚の中で、
「甘い衝動」として成されるものである
可能性があると言えるでしょう。
対人行動の「せばまり」「他人依存信仰」は、
対人行動力に
特有の「せばまり」を生み出します。
もちろんそれは
表面においては、
すぐ人に頼ろうとするという
ごく普通の
「依存心」から、
自分のことを自分で決められない、さらには
自分のことを自分で考えることができない、という
底なしの依存心にまで至る
バリエーションがあります。
深刻な例では、まるで
自分の代わりに人にトイレに行って欲しいという
思考まで
展開しているかのではと思わせる姿として・・^^;
その一方で、
「他人依存信仰」は
「過度の世話焼き」という
逆の行動傾向として
表現されることも少なくありません。
つまり、
相手が
自分で自分のこともできない、何でもやって欲しいという気持ちでいるという
想定に基づき、
その気持ちに応えるという
行動の仕方が、
行動の基本型枠のようになっている
ケースです。
これは
外面的には一見して
「行動力」があるように見えるのですが、
心の成長と豊かさに
向かう真の行動力とは
全く無縁なものである場合があることに、
注意が必要です。
もちろんそれは、
病床にある人への介護や、
家庭内での団らんの一場面として、
有効に機能している分には、そうした
「依存-世話焼き」という
行動様式そのものを
問題視する必要は、全くありません。
重要な視点は、そうした
「世話焼き」型の
行動傾向の
多い人が、
行動対処できる相手の幅を広げること(特に、「利害の対立」「社会的立場の違い」といったものがある場面)に困難を感じる、またそうした
狭い対人関係の中でさえ感情が動揺しがちである場合は、
依存的な側と
全く同等の
「他人依存信仰」の病巣があると考えるのが
まず正解だということです。
そこから
「怒り」「怖れ」「恥」「嫉妬」といった
悪感情が、
頻繁に生み出されている
病巣としてです。
この
理解をスタートにして、
「依存-世話焼き」の
行動法そのものを否定しようとする
減算法ではなく、
全く別世界となる
「原理原則行動法」「建設的対人行動法」「ウインウイン行動法」などの
「行動学」を
学び、実践してみるという
加算法の取り組みが
大切になってきます。
(参照:
5/18『3つの「行動学」』など)
「他人依存信仰」から
根本的に抜け出すかという
自分への問いも、あくまでそうした
「感情と行動の分離」の姿勢に立った
実践を体験する中で、
本当に意味を持つようになります。
「信仰」そのものを
方向転換する
実践として、
6/9『「信仰」への取り組み実践・概説』で言ったような
TV番組の傾向見直しといった、
心に取り入れる基本的な栄養素の
見直しを併せた、
息の長い取り組みとしてです^^。
「善悪」の思考最後に、
「善悪」という
巨大な心の命題が、
「他人依存信仰」の
文脈から生まれます。
その始まりは、
『(中)』で説明したように、
「怒り」と
「憎しみ」が結びついた形でです。
「他人」や
「社会」、そして
「人生」そのものが、
本来できるはずであり、自分にしてくれるべきであったことを、してくれなかった。
その「悪意」によって、自分の人生がつまづかされた・・という、
「怒り」と
「憎しみ」の形で・・。
その「怒り」と「憎しみ」に、何の答えも出せないまま、私たちはそれを心の中に置き去りにしたまま人生を生き始め、やがて大人になった時、その「怒り」と「憎しみ」を、今度は、大人になり何でもできているべきなのにそうではない自分自身に、そして全ての他人に、向け始めるのです。
ここに、私たち人間の心の悲劇の運命、私たち人間の「心の業(ごう)」と呼べるものがあります。ハイブリッド心理学の取り組みの全てが、この人間の心の業の根本的な克服というゴールに向かって、進むものになります。ここから、
『入門編上巻』の
世界が、始まります。とも言えます。
(まだの人買って~*~0~*)「善悪」の思考を、
根本的に解体し、
新しい生き方のための思考を、
ゼロから築き上げる取り組みです。
このブログでは、
「魂の感情」をその
最大の推進力とする
歩み方について、
本で書けていなかったキモの部分を、
本の補完としてこの後
要点を手短に書いていきます^^。
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