最も苦しかった時・・私が
37歳を前にした時に起きた、
「神になるのをやめるひらめき」の
意味は何なのか・・。
それを今回、
このブログでどう説明するかを考えていて浮んだ、
鮮明な記憶があります。
人生で最も苦しかった時の自分の
心の状態です。
『悲しみの彼方への旅』で描写した
大学4年の頃もそうでしたが、
大学院に行ってからも
かなりの波が続いており、一方、
日記につづられる私の
内面は、
何が起きているのかが
より分かりやすいものになっていました。
執筆に
専念するようになってから、
日記を一通り読み返す作業を進め、
大学院のその頃のものを読んだ時、私は
自分でも唖然とする文章を、
日記の中に見つけました。
そこにいる全ての人間を殺してしまいたかった、と。自分にもそんな思考をした時があったとは・・と思わず
感慨。
心の病の根核 「望みの圧殺」その時の感情そのものを、今はもう
感覚的には思い出すことはできません。
思い出すのは、
絵に書けるような
構図です。
私は、自分を、自分自身で、押し殺そうとしているのです。
なぜなら、
そんな自分だからです。
そんな自分の代わりに、
あるべきだった自分とは、こんな
自意識などなく、どんな異性とでも気さくさで馴れた楽しいお喋りをできる、自分だったのです。
そうでない自分にさせた、全てのものへの憎しみの血が、
私の頭にうっ血し、
爆発寸前だったのです。
こんな自分を
自分自身が見る目と、
同じ目で自分を見るであろう、その場にいる全ての人間を、
殺してしまいたい。そんな
衝動の地獄の穴に、私は
落ちていたのです。
そんな
心の構図だったことを思い出し、私は
日記の余白に、こう記しておきました。
「「望みの圧殺」が起きている」。「望みの圧殺」のメカニズム今、こうした
「望みの圧殺」が起きる
心理メカニズムを言うことができます。
受け身の姿勢、つまり
「受け身の価値観」や
「受け身信仰」「他人依存信仰」の中で抱く
自己理想像は、まず
絵に描いた餅の理想像になります。
なぜなら、
どうやって自分からそこに向かえばいいかという、
一歩一歩の能動思考を、もとから
失っていますので^^;
それはそうとして、
とんでもない心の歯車がそこから
回るのです。
自己の理想像は、
自分が何か「人間の魅力の身分」の序列の最高地位になるような姿として描かれるのですが、
同時に、
「現実の自分」に対してその望みを「圧殺」することへと、
仕向けられるのです。
最高地位を望んでいるという、まさにその精神的な低劣さによって、その望みは叩きつぶされなければならないのです。そんなものを許してはいけないことが、この望みの一部であることとしてです。自分はそんな望みなど望めないのです。なぜなら、そんな望みを抱いているような人間だからです。こうした歯車が回っていたことを思い出しながら、私はしみじみと、こんな
言葉を思い浮かべました。
まさに、望むことによって、自らの望みをくじくのだ・・と。丸沼高原スキー場の
リフトの上で。
(どーでもいい^^;)これが、
心の闇の、根核です。
「受け身信仰」の上に芽が出た
「望み」は、
こうなる運命にあるようです。
本人にはこの流れが
ほとんど見えないまま。感じるのは、
「意識」の全てが重い壁のように自分を押しつぶしてくる苦しみです。
抜け出し意識が一度
この溝にはまると、もう
理屈では抜け出せない、というのが
私の体験からの印象です。
気分転換などを図り、
感情が悪化した発端の場面にいったん思考を戻して、
行動法を
この心理学などを参考に考え直す。
まずこれが
最も効果的ではないかと。
その上で、より
長い目では、
「受け身形の望み」そのものを疑う目を持つことが
重要になるかと。
この辺の
考慮点を幾つか次に書こうかと。
あさって以降となり、天候なども見ながら多少流動的な予定ですー。
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