「意志」と「信仰」への雑感私自身は今
人生で、
「悩む」ということが
ありません。
「怒る」ことも
なく、
「怖れ」の感情さえも、もう
自分の心の中に見当たらなくなっています。
そして
生きることは、
楽しいことばかりのように感じるようになっています。もちろん
そうではない材料はいくらでもあるでしょうが、私はもうそれに
「空想」を、さらに
「意識」そのものを
使うのを、やめたのです。
なぜそう至ったかの
心の仕組みを、
私自身が
振り返り、
研究し、出てきた
結論が、
「心が良くなる3つの流れ」だということになります。
1.「望み」に向う
2.選択思考
3.怖れの克服
と。
それはあまりに
単純なことなので、
誰もができることであり、
誰もそう悩みなんて持たずに生きていられており、
何もわざわざ私が
書く必要のあることでもないのではないか・・。
新しい
相談メールもなく、気の長い
執筆だけに向う一日がある時、私はふとそう感じることがあります。
もちろん
社会の人々の
実状は
そうではないことを、
TVや
新聞、そして再び飛び込んでくる
相談メ-ルといった
「外部の刺激」に接することで感じる。
そんなことがよくあります。
10年そして
20年といった、
積み重ねの歩みの先にということになるのでしょうが、その先には
30年、
40年と、もう
悩みも怒りも怖れもなく、楽しく過ごせる人生があります。
一方で、その
積み重ねの最初の一歩を嫌った結果、
10年そして
20年といった時期を過ぎ、その先の
30年、
40年といった
生涯を、
あいも変わらず(^^;)悩み惑いと怒りと怖れの中で生きる人生があることになります。
好きな方を選べばいいのです。それは何かあまりにも、
とても単純なことのような・・。
しかし
自分の歩みを振り返った時、
思い出すのです。それは
茨の道であったことを。
特に、その
始まりにおいては。
それは私の
心の障害が
かなり深刻だったからです。
心の障害の
深刻さに応じて、
抜け出すためには明らかに
茨の道があります。しかし
茨の道が
厳しいほど、その先に見出す
光の輝きは
増します。
心の障害の傾向が
それほどない一般の人々は、
茨の道を歩む必要は
あまりないでしょう。しかしその先にある
「神になるのをやめる」という扉へとは向うことなく、
自分が神だという無意識の感覚によって、
心は
何かの絶対的な束縛の下におかれ、やはり
悩みと
怒りと
恐れの中で生き続けているように感じます。
茨の道を歩み出す、
最初の一歩は、
「価値観」が
大きく影響し、
「意志」が踏み出しを
決定づけ、そこで
足りないものを、最後に
「信仰」が
支える、ということになるのでしょう。
そして
茨の道が至る
大きな扉が
「神になるのをやめる」ことです。
全ては
「信仰」に始まり、
「信仰」に終わると言えるのかも知れません。
『理論編』(今は刊行の見込みぜんぜんなーし^^;)がそうした言葉で終わるように、私は
人間の心のこの
歩みの道の
全貌への俯瞰をしめくくるとき、いつもその思いに至ります。
いいかげん
具体的な説明を、
次の記事から書けるかと・・^^;
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