「心が成長する道」への復帰までを、かなり長ったらしく(^^;)説明ついでに、
私自身の体験をまた振り返ってみたいと思います。
「恐怖の克服」と
「人間の善悪と価値の選り分けへの問い」が、その
復帰への大きな扉を開ける鍵になるという話をしようと思っているのですが、
かつての自分を思い返すと、
その鍵にしてもそうスンナリとは手に入らない、
一筋縄ではいかない状況があったと思われるからです。
おさらい『島野自身の治癒過程を振り返って』については、
その4まで書きました。
「真実と嘘の錯綜」が現れるという場面の、
雑感です。
「真実と嘘の錯綜」とは、
『島野自身の治癒過程を振り返って-2』から引用すれば、
こんな言葉で表現されるものが、
自分自身の中に見える場面です。
望みは真実であり、一方で、望みに向かう自分には、嘘があり、真実が何よりも必要である一方で、嘘が何よりも許せないものになる・・。これは
『悲しみの彼方への旅』で描写したような、私の心に
大きな治癒が起きた、
山場の頃の場面です。
「未知の自分」を今見ることはできないこれは要は、
「抜け出し」の場面です。
「受け身意識の闇の川」に落ち、そこから
抜け出す場面です。
そこで私が中途半端に(^^;)語ろうとしたこととは、
「抜け出し」の際、私たちは抜け出す先を見ることはできない、ということです。
何もない闇だけが見えます。
つまりその時、私には、その相手に
「受け身に愛される愛」だけが見え、
それが世界の全てである心理状態に陥ったわけです。
同時に、
それを望み向かおうとする自分に、「嘘」がまといつくことを見たわけです。そして自分が
「嘘」を憎んでいることを。
望めば望むほど、自分はそれを得ることは不可能になる・・と。(
『悲しみの彼方への旅』P.278言葉を多少変えています)
その先にあるのは、
ただ、「意識」が崩壊するのです。
そして、
新しい自分が芽生えます。
「受け身に愛される愛」をもう
今までの強度では必要としない自分が。それは同時に、
「自分から自己能動に愛する」ことができる自分の、芽生えでもあります。
その時の私の
「意識」は、
それをまだ知らないままに、です。
「心の成長への道」への復帰は、私たちには
見えない歯車によって促されます。それが
「命の歯車」ということに、なるのでしょう。
先の
『神になるのをやめる-11・心の問題の根源の正体』で、
「心が成長する道」が
「人生を見失う道」へと変化してしまう
さま変わりのポイントを
3つあげました。
それに対応するように、私の
治癒の道のりは、
3つの形の中で、
見えない「命の歯車」が作用して促されたもののように感じられます。
それをざっと説明した上で、
大きな扉を開ける鍵の説明をしたいなと。
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