「未熟な望み」。
そしてそれが叶えられるような
「自己理想像」を抱くこと。
これ自体は
「人生を見失わせるもの」ではなく、
スタートラインとして回り続ける歯車です。
3つ目の歯車によって、
人生の生き方が
大きく違ってきます。
3.「受け身の価値観」「未熟な望み」と
「自己理想像」に続く、
3つ目の歯車は、
「価値観」です。
問題となるのは、
「受け身の価値観」です。
「受け身意識」のことではなく、
「受け身の価値観」です。
受け身にものごとが良くなることを、自分から立って歩くことで良くなることよりも
望ましいことだと、価値の重みを与えてしまう
感覚であり
思考です。
まあちょっと考えても、自分から立って歩くことで良くなるよりも、
受け身にものごとが良くなる方が、
価値が高い、自分はそうありたいと感じ考えるようだと、
人生が
どんどん道をそれてしまいますね。
自分から前に進むことなく
受け身でいて人生が良くなるような都合の良いことは、
あまりないのが「現実」だからです。
受け身でいることを重視するこの価値観では、
「幸福」、さらに
「自分」が、
受け身に作られるものと考えることになります。
「幸福」は
他人と社会から、あるいは
「運」や「神」から、
与えられる。
「自分」というものは
人との関係によって作られる。子供の心は
親によって大きく
決められる。
道徳思考の罠恐るべきは、そうした
「受け身の価値観」、
受け身でいることが価値が高いことだという感覚が、
「正しさ」という観念の下に、私たちに植えつけられることです。
「正しければ幸せになるべき」「正しければ愛されるべき」といった、
道徳的な思考です。
これは
その通りではないか!とお感じの方も多いかも知れませんが、
「正しい」とは「何が何にとってどのように正しいか」という
内容を明確にしないと、
意味のない話になってきます。
「1たす1が2であることが正しければ幸せになるべき」なんて言っても、あまり意味のある話ではありませんね。ハハ^^;
しかし実はそのように、
中身が不明瞭な「正しさ」の感覚を、私たちは抱いているように感じます。
それはひいては、私たちが、
自分自身の「幸福」を、
中身が不明瞭なものに追いすがるように求めていることを、意味しているのかも知れません。
さらにそれはひいては、私たちが、
自分自身の「幸福」を、
中身が不明瞭なものによって妨げられ破壊されるという、
中身が不明瞭な「怖れ」におおわれるようになることを、意味しているのかも知れません。
ここに、
「人生を見失う道」に開いた、
人生を見失う穴への
入り口がある。そんなイメ-ジを感じます。
「望みの感情」を見失い、ただ
「怒り」と
「怖れ」ばかりを自分の心の中に生み出していく、そんな
心の落とし穴への・・。
「自己能動の価値観」「受け身の価値観」の対照となるものを、
「自己能動の価値観」と呼んでおきましょう。
受け身に与えられることよりも、
自分自身から動いて得ることの方が、
価値が高い、自分はそうありたいと感じ考えることです。
なぜ
価値が高いか。
私自身の感覚で言えば、そのほうが
心が自由でのびのびして楽しそうだと感じるという印象からだと言えると思います。
受け身に与えられるというのは、ちょっと
窮屈で、あまりありがたくないという印象。まあ
自分で頑張っても得られないものは、
受け身にあわよくば得られれば・・という空想はやはり時に浮ぶとして^^;
一方、
「受け身の価値観」の方は、
労せずして手に入れるという、
魔法のような力への
プライドの感覚によって、人の心をくすぐると言えるのかも知れません。
その
行き着く先は、
世界の全体が自分に尽くすためにある、自分こそが神だと感じるという、
病んだ心の世界へと・・。
「自己能動の価値観」は、
心の健康と成長へとまっすぐに向く価値観です。
「未熟」と
「心を病む」という問題を合わせもった
スタートラインからの歩みへの、
最も基本的な原動力になるものとして、ぜひ
じっくり理解し、心をなじませていくのが良いでしょう。
「受け身の自己像」と「自己能動の自己像」「受け身の価値観」と
「自己能動の価値観」の違いは、
「受け身の自己像」と
「自己能動の自己像」の違いに、そのままつながります。
「受け身の価値観」でいると、
人にどう見られどう扱われるかかを
「自分」として捉えるようになります。
これは当然、
人との関係の中で、
相手の行動や態度が変わるたびに、
自分で感じる「自分」までもが
変わってしまうので、
感情は
極めて揺らぎやすく不安定なものになってしまいます。
これが
「受け身の自己像」です。
この
行き着く先は、
人に良く見られないことが、「自分」というものを駄目にされ破滅させられることとイコールと感じるという心理になります。
その結果、
自己像を維持するためには自分を良く見ない相手を殺す、といった
事件が起きやすいのです。注意しましょー。
(←軽すぎる言葉^^;)「自己能動の自己像」では、
自分が何を望みどう行動するかを、
「自分」と捉えます。
人との関係の中で、
相手の行動や態度が変われば、それはやはり
気分を揺るがせるものです。でも
「自分」そのものは
しっかり自分で持っていますので、話が全然違います。
そこから、
揺れ動く相手の行動に
よりうまく対処できるようになり、
心が安定していく、
成長への道が始まります。
「価値観の検討」の思考作業「価値観」というのは、
変えることが基本的に
とても難しいものです。
それは
さまざまな言葉で、私たちの心に
植えつけられています。
例えば、
「女の子は人に愛されるのが幸せ」「他人にバカにされる人間にだけはなるな」。ともに、
受け身の価値観の言葉です。
これが
自己能動の価値観だとどうなるか・・は、ここでは書かないでいいでしょう。
(?スペースの都合もあり^^;)ぜひ考えてみて下さい。
「価値観の検討」は、
4段階の思考作業を必要とすると言えるでしょう。
1)
価値観の種類をまず頭で憶える
2)
自分の日常思考がどんな価値観であるかを把握する
3)違う価値観だとそれが
どんな思考になるかをシミュレーションする
4)実際それが自分の
本心から取ることができるものかを検討する
ここで最後に、
本心として取れなければ、仕方がありません。まだ
元の価値観で生きているということです。まずはそれをしっかり把握することから始めます。
これを人生を通して、問い続けていくのです。一度検討してみて、
「自己能動」には
自分がなれていないと自覚したら、それがやはり
スタートラインです。
ハイブリッド心理学の
四方八方からの取り組みの中で、
一つの角度からの取り組みが、
まったく関係ないような問題での自分の感じ方を、見えないつながりの中で変化させていきます。
そして再び
自分の「価値観」に向き合った時、
違う感じ方ができるようになり始めている、未知の自分の訪れを、やがて知ることになるでしょう。
そうした
「価値観の検討」のためには、
幅広い視点から
沢山のことがらについての考え方に触れることが重要になってきます。
ハイブリッド心理学の
本はそのためにあります。
(まだならぜひ買って~^^;)このブログでは引き続き、ここで説明した
2つの対照的な「価値観」が
重要な歯車となる、
「人生を見失う道」、およびそこからの
「心の成長への道」への回復の、
大まかな流れを説明していきます。
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