では
「神になるのをやめるひらめきへの4つの準備」について、
最後のものを説明したいと思います。
この
4つの
最後のものです。
「完璧は存在しない」
「社会を生きる自信」
「怖れの克服」
「神への未知の思考」
「神をどう考えるか」このテーマについては、まずは
ハイブリッド心理学とは全く無関係な、その言葉通りの問いとして、
皆さん自身がどう考えているかを、まず
自己把握して頂ければと思います。
街で
知らない人に、
こう聞かれたらどう考えるかの
設問として。
どう親切に答えてあげるかは別として。
アナタワー、カミウォー、シンジマゥスカー? ←別にあやしい外人である必要はない。アハハ。(自分で大受けの島野でした^^;)マジな話(^^;)、これが
極めて重要なテーマだと、私は考えるわけです。
なぜか。それは私たちが頭で答えを出せない問題、しかも私たちが最後にそこに心を委ねるしかない、答えの出させない問題・・その多くは、「怖れ」を伴う問題・・に対しての、私たちの心の根底の姿勢を、支配しているものではないかと、私は考えているのです。「神さま」という言葉が、
人間にとって
こうも本能的な言葉でなければ、
こうはならないでしょう。
本能的な言葉であるとは、あまり
多くを説明する必要もなく、
「神さまが~なんだよ」といった言葉を
幼い子供に喋る中で、
子供はすぐその意味を感じ取る、そんな
言葉であり
観念だということです。
「神さま」という言葉が、たとえば
「税金」という言葉のように(^^;)、その
意味を子供に教えるのに苦労するようなものであったとしたら、それは
本能的な観念ではないということです。
そしてそれが私たちの
生き方の根底姿勢にかかわるということなども、ないでしょう。
(生計には大いにかかわるけど^^;)事実は、人間にとってかなり本能的な観念だということです。「神」というのは。だから
太古の昔から、私たち
人間の「生き方思考」は、まず「神」の観念の下に検討されることに、なったのです。
私たちの
「心を委ねるべきもの」として、ということになるでしょう。
そして
ハイブリッド心理学から、その
頭で答えを出せない問題についての
心の根底の姿勢とはいったい
何についての姿勢かと言うのが、
決定的になってくるわけです。
それは、「心を解き放つ」ことです。神への思考私たち人間が
「神」について考える思考には、およそ
4つのパターンがあることを、すでに
3/29『神になるのをやめる-8・最後の2つの歯車』で指摘しました。
自分が神だと考えるもの。これは
「心を病む」こと、さらに一般的な
「未熟」が関係します。
はっきりと自分が神だと思考するのは、心を最も重く病む
「統合失調症」などで時に見られます。確信の下に抱かれる
「選民思想」は、人間の歴史が示す通り、
一つの「狂気」そのものです。
未熟な人はしばしば、
特定の他人を
神のように崇拝して言いなりになったり、人から
自分が神のように崇拝されるという
空想を抱いたりします。これに
攻撃性が結びつくと、
「崇拝-隷従」という構図の対人行動に駆られる傾向が生まれます。
神を知りそれを敬うとするもの。これを
体系的な知識にしたのが、
「宗教」ですね。
神など存在しないと言うもの。「無神論」と呼ばれます。
表の知的思考としては、こう考える人が多いかも知れませんね。
神を「未知」とするもの。上の3つの
どれとも異なるものです。
神については何も知らないし、分からないので、何も言えないとする考え方です。
これを
「神への未知の思想」などと呼べるかも知れません。
「神への未知」の思考後の2つの
違いが分かりにくいかと思いますので、少し説明しましょう。
一般的な「無神論」と、
私自身が考える「神への未知の思想」の
違いです。
まず
同じ面を先に言いますと、
「神」を
「人間のような意志を持ち万物を支配する全知全能のもの」とする意味においては、その
「存在」を否定しています。
まあまずはそんな意味のものとして
イメージするのが、私たち
人間の本能的な観念としての
「神」だと思います。
しかし
「神」の
定義を少し変えると、
違いが現れるのです。
「意志を持ち万物を支配する全知全能のもの」と定義するならば、です。
一般的な「無神論」は、やはり
その「存在」を、否定するものになると思います。というか
否定するものをその言葉で呼びたいと思います。
それに対し、
私自身が考える「神への未知の思想」では、その
「存在」を否定しません。
違いを浮き彫りにするためあえて言うならば、
「肯定する」とさえ言えます。
つまり
「神」を、
「人間のような」ではなく
「人間のようなものとしてではない意志」を持ち万物を支配する全知全能のものと定義するのであれば、それは
存在するのかも知れない。
ただしそれは
もう分からない。
人間に分かるのは、あくまで
人間に分かる範囲のことであるから。
そうした
「人間に分かるもの」を
超えたものがある。これを
はっきりと、肯定する考え方です。
それが
具体的に何の話かという、
現実的、そして科学的な「論拠」と、
これをどう考えるかが私たちの
人生の生き方に与える大きな影響について、手短に説明をしておきましょう。