カテゴリ: 特説・「心が良くなる」とは の記事一覧(作成順)
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2012-02-22 Wed 12:03:54
おさらいと序さて、
「生涯終わりなき成長」に
向かうための
ハイブリッド心理学の
取り組みへの
「いざない説明」として、
「全体」「鬼門」「扉」という
3つのテーマの
最後、
「扉」について説明しています。
それは
この取り組みの
歩みが
本当に一歩を踏み出すための
扉であり、その
実体は
「現実を見る目」になるのだと。
その
「現実を見る目」とは
どんなものかを
理解頂くため、まず
そもそも「心が良くなる」とはどんなことか、から
話を始めています。
言葉だけ
先の「扉4」で出しておきました。それは
「外界現実への向かい方が良くなることの積み重なり」だと。
内面の変化に
触れなくとも、
内面の変化まで
含めても、
「これでいい」という
安心・自信・満足を、
心の根底から
積み重ね築き上げたものなのだと。
(←「心の根底から・・」の言葉はここで追加^^)「心が良くなるとは」への正解と罠と轍実際のところ、
この取り組みは、
自分の心を自分で良くする取り組みです。
そのために、
そもそも「心が良くなる」とはどんなことなのかの、
正しい理解を
スタートラインにしなければ
始まらない。
間違った理解を
スタートラインにすると、その先に走りだしても
あらぬ方向に突っ走ってしまうだけです。
しかし
実際のところ改めて考えてみますと、私たちは
「心が良くなる」ということについて、
かなり漠然とイメージした中で、あるいは
混迷の中でイメージしたものに向かって、
自分を変えようと誤った努力をしてしまうというのが
多々ありそうです。
ということで、ここで
「心が良くなるとは」についての
正しい理解と、
罠そして
轍(わだち)について
整理しようと思います。
正しい理解とは、
それに基づいて心に取り組むことが、
着実に
心が良くなることにつながるような、
基本的な理解です。
罠とは、
それに基づいて心に取り組むと、
逆に心が悪化するものです。
轍とは、
それに基づいて心に取り組むと、
逆に心が悪化するとまではいかないとしても、
悩み惑う心にはまったまま、抜け出しようがなくなるものです。
これを、
カテゴリーとしては引き続き
『詳説・実践のポイント』に入れておきたいと思いますが、
『特説・「心が良くなる」とは』という
シリーズにて^^。
それにより、
「現実を見る目」というものが、
歩みの
スタートラインであることが
自然と
はっきりしてくると思いますので、そこから再び
「扉」説明へと、
その目を
ふさぐ姿勢や、
その目の
使い方などの話に進めようと思います。
ということで、
ポイントごとに
記事を分けて、次から説明していきましょう。
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特説・「心が良くなる」とは-1・「感情が良くなる」と「心が良くなる」は別
2012-02-23 Thu 08:03:27
「感情が良くなる」と「心が良くなる」は全く別
ではまず、これをはっきり分けなければ話が始まらないというところから話を始めましょう。
「感情が良くなる」ことと、「心が良くなる」ことです。
これは全く別の話です。心の良し悪しに関係なく、感情が良くなることはあるものです。
また感情の良し悪しに関係なく、ということは感情が悪化するのを通る形で、心が良くなるということがある。これは「心が良くなる」ことの理解の、かなり最終局面的な話になります。
まずははっきり分かりやすいところから始めましょう。そこから、自分で自分の心を、ということは心が心自身を良くするためにできることは何なのかを、浮き彫りにするためにです。
「うつ病が治る」は「心が良くなる」?
「感情が良くなる」ことと「心が良くなる」ことが区別されていないために、全くもって人々の理解の混乱が起きているのが、他ならぬ「うつ病が治る」といったことになるでしょう。
話を単純化するため、うつ病への対処として投薬が成され、無事治ったとしましょう。これは「心が良くなった」ということか。
これを議論することは無駄と思われます。それはそもそも「感情」と「心」を同義語として使うか、それとも異義語として使うかの問題と思われます。
つまり、「感情が良くなった」ことそのまま「心が良くなった」と考えるか、それとも、「心が良くなる」とは「感情が良くなる」こととはまた別の、何か重大な変化を言うのではないかと考えるか、の問題と思われます。
その「何か重大な変化」とは、まずは感情そのものではなく、感情の原因についての何かの変化だということになるでしょう。
ここでは後者の立場での話をしていきましょう。つまり、「感情が良くなる」こととは別のこととしての「心が良くなる」ということがある。それはどのようなことかを、考えてみます。
感情の成り立ち構成
するとまず言えるのは、私たちの幸福状態というものを結局決めるものであるところの「感情」「気分」「気持ち」というものは、「心」以前の身体生理的な快不快から始まり、人生について抱く感情にまで渡るものとして、かなり次元の異なるものから成る混成物だということです。
そこでは当然、身体的な快不快の重みも軽視することはできません。身体の健康を損なって発生する不快感や苦痛があると、私たちの幸福はどうしても多少とも損なわれることになってしまいます。
単純に、身体の健康状態によって日々の気分感情の良し悪しが影響される面があります。これは心が良い悪いとは全く別の話と考える・・・というかそれはここでの「心が良い悪い」ではないとするならば、どんな感情については「心が良い悪い」が強く関わるのかを考えてみることができます。
そのように、「心が良い悪い」ということにつなげて考えることができそうな感情と、別の話として良さそうな感情というものを分類してみると、私たちの「感情」というものが、およそ3つの次元のものから構成されると考えるのが良さそうだと思われます。
それは「身体レベルの感情」「情緒レベルの感情」「人生レベルの感情」という3次元です。
それぞれどんな種類の感情か、そこから「心が良くなる」とはどういうことだと言えるかを次に。
2012-02-25 Sat 12:26:50
感情の3次元構成
さて、私たちの心が持つ「感情」の内容を、「心の良し悪し」というものにはあまり関わりないものと、強く関係しそうなものという視点から分類すると、「次元が異なる」とも表現できるような、大きく3つのくくりが考えられます。
その3つのくくりを、「身体レベルの感情」「情緒レベルの感情」「人生レベルの感情」と呼んでおこうかと。
それぞれ以下のような内容のものです。
「身体レベルの感情」・・・身体の健康状態によって直接起きる快不快の感情、衣食住など身体的欲求における基本的な充足についての快不快の感情、5感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)における基本的な快不快の感情。
「情緒レベルの感情」・・・大きく2つの領域から成る。
a)上記身体レベル感情における「包括的な嗜好性」つまりまとまりと好みを持たせたさまざまなもの、たとえば料理や服装や住まいと居住地などの好みや贅沢度合い、音楽やスポーツや芸術などの好みや趣味による感情。(個における情緒レベル感情)
b)人や社会との関係における感情。「愛」と「自尊心」が心の基本的課題テーマになる。(関係性における情緒レベル感情)
「人生レベルの感情」・・・「人生」という感覚観念からの感情。基本的には情緒レベル感情の対象を長期的な計画の下に得ることについての感情と位置づけられる。
「外面現実」「包括」「長期視野」
さてこのような感情の3次元構成というものをざっと眺めますと、「外面現実」と、それについての「包括」と「長期視野」というのが、まずは基本的な鍵になっていると言えます。
つまり、私たちの「感情が良くなる」とは、まずは「身体レベル感情」から始まるものとして、「外面現実」が良ければ、それへの心の反応として良い感情が流れるいう、シンプルな話があるということです。
身体レベル感情の内容はほぼ全体がそれですし、情緒レベル感情における人や社会との関係における感情についても、まずは「外面現実」が良ければ・・・まずはそれは人と良い関係が持て、社会で優れた存在としてあれるといったことになるでしょう、それへの反応として心には良い感情が流れるというシンプルな話があります。
そしてそれが情緒レベル感情における「包括的嗜好性」、さらに「人生レベル感情」になるとは、それらを文字通りより「包括的」に、そして人生のより長期的な視野において得ることができることに対して、心はそれぞれの次元での良い感情を反応として返すということになると思われます。
そこで、より次元の高い感情においてほど、良い感情を得るためには、偶然や運や人任せでは難しくなってくるということが、言えると思われます。
「心が良い」は全て「外面現実の良さ」に帰する・・?
これがまずざっと言えることです。そしてここから、実にあっけないとも言える一つの結論がおぼろげに現れます。
それは、「感情が良い」とは結局全て「外面現実の良さ」に帰する、というものです。あとはそれを人それぞれの包括的嗜好性と人生の長期計画において得ることに、いかに長(た)けるかです。その「長けてくる」という側面が、「心が良くなる」ことです。
これだと、私たちの「感情」というものが、全てにおいて「外面現実の良し悪し」への「反応」でしかなく、心の内部そのものを源泉とする感情はない、という話になってしまいます。
これはもちろん誤りです。心の内部そのものを源泉とする感情の部分も考える必要があります。
しかしそうだとして、「感情」というものが「外面現実の良し悪し」への反応としてあるというベースの重みを無視することはできないでしょう。心の内部そのものを源泉とする感情の部分も、そのベースの上での位置づけを持って起きてくるものだからです。
この部分を引き続き見ていきましょう。
特説・「心が良くなる」とは-3・「外面現実」と「外界現実」へのアプローチ
2012-02-27 Mon 15:45:18
読者広場で以下に
コメント入れてあります^^。
「流す意識法」について。それは
「気にしない」ではなく
「気にしても良し」という
姿勢だという話など。ご参考あれ^^。
『音について』 irohasuさん No.453 2012/02/22心そのものを根源とした感情・・私たちの
心において、
「感情が良くなる」とは
「外面現実が良くなる」ことへの
「反応」として起きるものだという
考えを、
前記事の
その2で書きました。
もちろん私たちの
「感情」が
全て「外面現実の良し悪し」への
反応としてのみ起きるわけではなく、
心そのものを根源とした感情もある。それでも
外面現実の良し悪しへの
反応として
感情の良し悪しがあるという
ベースの重みは
無視できない、と。
では
心そのものを根源とした感情とは
どんなものかを見ていきましょう。
心の取り組みの2大潮流なお、そうした
ベース部分の考え方からして
全く違う心の取り組みアプローチもあります。
「外面現実の良し悪し」には
全く関係なく、
心に湧き出る感情を
良いものにできる、という考え方によるものです。
これは
2/15『歩みの扉2』で、
心の取り組みの
2大潮流として指摘した
「現実適応力追求型」と
「絶対精神力追求型」の内の、
後者です。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の
考え方ですね(
2/17『歩みの扉3』)。
ハイブリッド心理学は
そうした考えは
採用しません。つまり
外面現実の良し悪しには一切無関係に感情を良くする方法などというものを、
最初から求めません。
そうしたものは
全くあり得ないと断言はしませんが、
基本的にそれは
無理にプラス感情を湧き出させようと、心に力みを加える、不健康なストレス、そして
心を良くしようとして逆に悪化させるこに
つながりやすい姿勢だと考えています。
ですから
心に取り組むのであれば、そうして
自分の心にじっと見入るようなものではなく、
「外界現実への向かい方」に
取り組むということを行うのだという話を、今回の
「いざない説明」でしているわけです。
基本は
「現実適応力追求型」の
アプローチだと言えます。
どんな外面現実が本当に良いものなのか・・それでも
「絶対精神力追求型」になるであろう
宗教哲学や
スピリチュアリズムと、
行く着くゴールが
同じものになるように思われることも、
『歩みの扉2』や
『「のぼるごとに、同じものが見える」』シリーズ(
前・
中・
後)で述べている通りです。
そしてそうなる
理由が、実は、
「外面現実が良くなることで感情も良くなる」のだという、
ハイブリッド心理学が採用する
考えのベースの
先に、まさに見えるものでもあるのです。
それは、確かに
外面現実が良くなることで感情も良くなるのですが、
そもそも私たちは、どんな外面現実というものが本当に私たち自身それぞれにとって良いものであり、または逆にあまり望ましくないものであるのかが、実は良く分かっていないのだ、ということです。
私たちの
人生に起きていることの
実情は、こうなるでしょう。
「こうなれれば幸福だ」という、自分自身の空想の中のイメージや、人の言葉に踊らされて、ストレスの中で駆られたり、もしそうなれなかったらという惑い不安や、そうなれない自分なんてという自分への駄目出しと病んだ悪感情の中で生きるという
結果です。
実際に自分がどうなれば、どうあれれば、この現実世界というものは、そして自分の心というものは、どうなれるものなのかという、
イメージの色メガネを通さない、
ありのままの現実を生きることを
しまいままにです。
「外面現実」の向上のための「外界現実」への向かい方を学ぶ真摯な
哲学宗教や
スピリチュアリズムも、そして
ハイブリッド心理学も、同じく、その
山の頂に登るために攻める
斜面がそこにあるのは
間違いのないことでしょう。その先に至る
山の頂きが
同じものであることも。
ただし
登山ルートは
全く違います。そのために
プラクティカル(実践的)に行う
一歩一歩の内容も。
日々の生活場面での問題や、
人生における課題について、
着実に
外面現実を向上させるような、
思考法行動法の知恵を
学ぶのです。
今を原点として唯一無二の自己の成長に向かう意志という、
「基本的自己受容」を
スタートラインにしてです。
そこで
どんな「外面現実」の向上を
目指すならば、
「外界現実」というものを
どのように見て、どのように向かえばいいかの
答えが、私たち
それぞれが自分で考えればいい・・のではなく、
「外界現実」にその
答えが
すでにあります。同じような
取り組みをした人々の
体験の蓄積を通してです。それをまず
学ぶのです。
「外面現実」と「外界現実」ここで
言葉の
微妙な
ニュアンスの違いを説明しておきましょう。
「外面現実」は、その
良し悪しによって、
心が
感情の
良し悪しの
反応を起こすような、
目に見える外面の様子です。
一方、
「外界現実」は、私たちが
それに向かうものとして、
目には見えないものとして考慮しなければならないものごとも
含んだものです。
他人の内面感情がその
際たるものです。これはまずは
あくまで目には見えないものとして
考えなければなりません。
「そう見える」と感じるものは、まずは私たち自身の
内面を映し出したイメージにすぎません。
現実の他人は、
必ずしもそうではないこともあり得る面を
見ることのできる目が大切です。
また、私たちが
このように行動すればものごとはこう運ぶ、という
「現実の理(ことわり)」があります。まあ
「現実界の法則」ですね。これはもちろん
頭を上げて外を見回しても
どこに書いて貼ってあるわけでもなく、
さまざまな情報(この心理学もその一つ^^)から
学ぶ必要があります。この
「外界現実」にある
「現実の理」というものが、私たちが
人生で
「学ぶ」ものの
中心の
一つになります。
こうして、私たちが
「外界現実」に
向かった「結果」として、
「外面現実」が
変化する、という
形になります。
そうして、
「外面現実」を
目指す望ましい方向に変えていくための、
「外界現実への向かい方」を
学ぶわけです。
「外面現実の向上」が全てではなく・・そのために
決定的に重要になるのが、
「現実を見る目」と
「自分への論理的思考」です。
自分の心を映し出したものではない、
空想の中のイメ-ジではない、
自分の感情による偏った解釈ではない、
色づけのない「外界現実」を
見る目。
そしてそこにある
「現実の理」を、
論理的思考によって学び、納得理解を自分自身に問えるような
思考の仕方です。
それについて今
「扉」説明として、そしてそのあと
「自分への論理的思考」説明へと進めますが、ここでは
「心が良くなるとは」の
理解を
先に済ませましょう。
ともかくそうした
「外界現実」への
向かい方によって
「外面現実」が
向上できれば、
いやがおうにも私たちの
心に流れる
感情というものは
良くなるものです。
心にじっと見入って、プラス感情を捻り出そうと悪あがき(^^;)する必要もなく。
で、そうして
「外面現実」が
良くなれば感情が良くなることだけを
最後まで追及するのではない、
心そのものを根源とした感情への
理解という話が出てくるわけです。
ここでは
「2大潮流」の話など
ちょっと寄り道になりましたが、それを引き続き
次に^^。
特説・「心が良くなる」とは-4・心そのものを根源とする感情
2012-02-29 Wed 12:46:52
しっかり雪が降り積もり続けている(今見たら庭は7、8cmくらい)今日はさすがにこの冬初めて日中から石油ストーブを使っている島野@_@。普段はよほど寒くてもちょー着膨れでへいちゃらなのですが・・^^;心そのものを根源とする感情「外面現実」が
良くなれば、それへの
「反応」として
感情は
良くなる。これがまず言える
シンプルなベースとして、私たちの
心が湧き出させる
「感情」というのは、そうした
「外面現実への反応」が
全てではない。
では
「心そのものを根源とする感情」には
どんなものがあるかを、見ていきましょう。
これはまずざっと
3つがあると言えるというのが、今回採用したい
くくり分け方法です。
まず
一言で言いましょう。
1つに、その
ベースそのものの中に
含まれているものがあります。その
ベースそのものの
前提となる、
「欲求」「望み」です。
外面現実が
良くなれば
感情が
良くなるのは、その前に
前提としてそれに
対応する「欲求」「望み」があるからです。
ただし、これが
完全にただ前提とは言えず、
前提であると同時に、反応である面もある。これを
次の記事で説明します。
2つ目に、
心そのものを根源とするプラス感情があります。
「自信」「自尊心」です。これは要は、
同じ外面現実を前に、
結果反応としての感情が
だいたい同じだとしても、
向かう途上の感情が
より安定し、安心感安全感に満たされてくるということです。これは
心そのものの側に
依存します。
3つ目に、
心そのものを根源とするマイナス感情があります。
「心の業と病み」であり、
自分からものごと、つまり「外面現実」と「内面感情」を悪くする感情、心の動きです。
この
3つどもえの中に、先の
その3で指摘した、
「外面現実が良くなれば感情は良くなるとして、そもそも私たちはどんな外面現実が私たちそれぞれ自身に本当に良いものであるのか、分かっていない」のだという、
「現実適応力追求型」と
「絶対精神力追求型」の
心の取り組み2大潮流が
ともに攻略ポイントとするであろう
問題への、
答えがある、という話になります。
治癒・成長・成熟その
鍵はもちろん、
「治癒・成長・成熟」です。
それぞれ上の
3つに
対応していると言えるでしょう。
逆の順番で対応します。
「治癒」は、
「心の業と病み」が
捨て去られることです。
「成長」は、
「自信」「自尊心」が
増大していき、より安定しより揺らぎなくなることです。
この
2つはそれぞれ
マイナスの
捨て去り、
プラスの
増大という、
比較的シンプルな話ですが、
最後のものはちょっと
質が異なり、
特別です。
「成熟」は、
「欲求」「望み」が
湧き出る根元から質が変化していくことです。
未熟から
成熟へ。それは
貪欲に「与えられる」ことを求める性質のものから、
「自ら与える」という性質のものへと、
質が変化することです。
それは
同時に、最初に書いたような
ベースからして、まず
フラストレーションを起こすものとして始まる心から、
最初から満たされたものとして始まる心へと、
変化するということです。
ここに、
心の取り組み2大潮流が
ともに求める答えがあるのは、
疑いのないことでしょう。
「無条件の愛」そして
「豊かな無」に
向かうものとしてです。
あとはその
仕組みです。それはここにあげた
心の源泉の歯車の、
どこの作用として生まれるものなのか。
心そのものが源泉の
3つの感情類をざっと見て、
ハイブリッド心理学からの、それについての
考えを書いてみましょう。
2012-03-05 Mon 15:53:32
ブログ上部に表示されていた「FC2検索バナー」を表示しないように設定変更しました。タイトル画像上部の青いラインが見えなくなっていたため^^。
ブログ記事内の検索は右側ガイドの『全記事一覧』の下に置いておきましたので^^。また
かなりの考察整理および
母の一周忌などで
間が開きました^^ゞ
「心が良くなるとは」への答え「心が良くなる」とは
どういうことかという
テーマへの、
この心理学からの
答えは、
その2で述べた
「感情の3次元構成」という話、
その3で述べた
「外面現実」と「外界現実」、
そして
その4で述べた
「心そのものを源泉とする感情」、
この
3つのテーマ視点の、
お互いの関係位置づけを
掛け合わせ理解することで出てくる、という
結構複雑な話になりそうですが、
ハイブリッド心理学が
初めての人にも読んで頂けるような
教科書的な言葉としてはこんなものになりそうだというものを、また
ちょっと時間をかけて整理しましたので書いてみましょう。
まず、
ハイブリッド心理学から
一言で言うその答えは、
その序でも言った通り、
「心が良くなる」とは、「外界現実への向かい方が良くなることの積み重なり」だということになります。
どういうことかの
説明は、以下のようになります。
ベースまず私たちの
心には、
「外面現実」が
良くなれば、それへの
「反応」として
「感情」が
良くなるという、
シンプルな仕組みがあります。
それは
「命」というものが、
より良い状況で生きるように
自らを方向づけるための
仕組みとして、そうした
「感情」という
仕組みができたと考えることができるでしょう。
そこで
「身体レベル感情」から
「情緒レベル感情」さらに
「人生レベル感情」と
次元が
高くなるにつれて、
人それぞれの
「包括的嗜好性」に
向かう必要が出てきて、
偶然や運や人任せでは難しくなり、いかに
自分から、
自分自身にとって良い「外面現実」を
実現することに向かうかが求められることになります。
そうした
自分なりの「包括的嗜好性」に
向かうことに長けてくるのが、まずは
「心が良くなる」ということの最も
シンプルな基本的側面だと言えるでしょう。(
その2)
「外界現実」への向かい方を学ぶここで
「外面現実」とは、
「その良し悪しによって心が感情の良し悪しの反応を起こすような目に見える外面の様子」のことです。
一方、
私たちがそれに向かうものとして、
目には見えないものとして
考慮しなければならないさまざまなものごとも
含んだものを、
この心理学では
「外界現実」という
言葉で言うようにしたいと思います。
目には見えないものとして
考慮しなければならないものとは、
「他人の内面感情」やさまざまな
「現実の理(ことわり)」「現実の法則」といったものです。(
その3)
この
「現実の法則」には、
物理自然現象のみならず、私たちの
身体についての
法則、さらには私たちの
心についての
法則も含まれます。その
健康と
成長の
あり方についての
法則などです。そして
人は
人に対してどのように行動すると
どんな結果を招くのかという
対人行動法や
人間関係、さらにその
集まりとして
社会全体がどのように動くのかといった、
「現実世界」の全てものごとのに、
「現実の法則」があるわけです。
そのように
「外面現実」と
「外界現実」というものを
考えるのであれば、私たちの
「感情」を
良くするためには、そうした
「外界現実」に対して積極的に良い向かい方をすることが
第一であるのは明らかです。
目に見える「外面現実」に対して
受け身に反応することに終始するのではなく。
「現実の法則」の学び方と活かし方もちろんそうした
「現実の法則」について
世に言われるものは
真偽がさまざまであり、
見分けることが
重要になってきます。また
「こうすればうまくいく」という一面的で安易な言葉にも
注意が
大切です。
「現実世界」は
多面から成り、
沢山の
「現実の法則」の総合結果として動いているからです。
その
学び方と
活かし方についての、
ハイブリッド心理学からの
指針は、およそ次のようになります。
「身体レベル感情」の段階まず
「身体レベル感情」については、それに
対応する外界現実出来事には
答えがあります。
衣食住の
基本的なものごとや、
外出する時気をつける
天候や
交通、
身体の健康の
知恵などなど。これについて
自分に必要な情報を自分で得る姿勢と、
論理的思考で確実なものを考えることが
大切です。そのための
豊富な情報が、
本や
TV、さらに
インターネットなどから得られるのが
現代社会の
便利なところです。
この段階での問題は、こうした
日常思考からして
自分だけで考えることができず、あるいはしようとせず、人に頼る傾向です。またこれに
伴って起きがちであるものとして、
日常思考において
自分では論理的に思考しない、論理的に思考できない傾向です。
人の話は論理的に聞くとしてもです。
「自分では論理的に思考しない」という問題こうした傾向が
度が過ぎて起きるのが、最近
芸能ニュースを騒がせている
某女性タレントの
高級アパート賃料滞納訴訟問題といったものです。
占い師に
マインドコントロールされたとの噂。
TVのワイドニュースで、以前その
占い師に同じように
同居生活とかなりの出費を強いられた
女性が、
自分は目が覚めたとして語っているのを見ました。
手に大きな魚肉ソーセージを2本持ち、それで腿をバンバンと叩きながらジョギング、あるいは
「欽ちゃん走り」でのジョギングを、
「神の計画によるミッション」として命じられた。それを
当時は
名誉なことだと嬉々として実行してしまっていたと。
それを聞き
唖然とすると同時に、
強烈に湧いてくる
疑問とは、その時
相手がいかに
それを信じ込ませる話術に長けていたとしても、そこに語られるそうした
支離滅裂で荒唐無稽な内容を、
どうして信じることができたのかです。
「それは確かなことである」という論理的判断構築というものを、
彼女はどのように
今までの人生における知識との連続性として
成し得たのか。
何のことはない、もともと、論理的には思考していないと考えるのが
恐らく正解でしょう。つまり、
その時の感情が、その時の気分が、「きっとそうだ」と針が触れた話を、信じるという思考で生きてきているわけです。あとは
その時に
現れた、あるいは見聞きした思考がどんなものかの、
出たとこ勝負になるという
状況です。
心には取り組まず・・そこまで
極端なことにはならずとも、
実は同じ状況にあるのが、
世の人の一般であるのが、どうやら
事実であるようです。つまり、
心が惑うこと、心が悩む問題に際しては、感情で感じるようにしか、思考できないのです。もちろんそれでは、
悩み惑う心を、
揺るがない安定した心と
自ら変えていくことなど、
全くできません。
ですから、
自分の心の悩みの
内容には
直接関係しないと感じるような、日常的な事柄からして、
自分で論理的に思考できるようになることが、
心に取り組もうとする多くの方の
課題だと私は感じています
それは
一つには、
心の問題というのは、それを
解決しようと、
「心を良くする」という意識で「心に取り組もう」とすると、
解決するより逆に悪化することの方が多いのです。
その姿勢が、そこから
何ができるか
以前に、
自分の心への駄目出し姿勢になってしまうからです。(
『いざない1』など残照)
ですから
「自分の心のあり方」をどうにかしようという意識が強すぎる中で感情が悪化しているケースは、
まずその意識が誤りであることを知り、まずは目の前の日常作業を機械的にでもこなすことに意識を切り替えるとともに、心身的にリラックスできる環境を整えるのが
一番望ましい。
「応用」するための論理的思考次にに、そうした
日常生活の中で、まず
感情で感じるようにしか思考しないのではない、
自分自身の中でていねいに論理的に思考するとは
どういうことかを
分かった後、もし
取り組むべき心の問題があるのであれば、それに対して
どのようにアプローチすれば良いのかを、
身体への医学的な取り組みの場合と同じように、
しっかりとした心の学びをしっかりとした論理的思考によって応用するという
思考作業の
形で、始めるのがよろしいかと思います。
そのように、
心に取り組むための
正しい取り組み方として、まずは
「身体レベル感情」に対応する
「外界現実」を見る目と、
「自分への論理的思考」があります。これについて
詳しい考慮点を
このあと説明しますが、ここでは
「心が良くなる」ことの
大まかな理解を先に進めましょう。
できれば
一記事に収めるよう
一気に書きたいところで、
あと多少書けてもいるのですが、あまり
ブログの間隔をあけないよう
適度に分けてアップしておきましょう。
最終的には
3記事くらいになるかなと^^。
2012-03-08 Thu 18:27:55
「心が良くなる」というテーマ雑感・・(どーでもいい?部分^^;)続きも結局
かなりの時間を要してしまいました^^ゞ
きのう日帰りスキーを入れ込んだりもあり^^ゞまあこの
「心が良くなるとは」というなんとも
大まかなテーマを、
ハイブリッド心理学の
全体そして
真髄エッセンスも
表現するものとして、
教科的短文で書くなど、
ちょっと無謀だったかと思ったりもするような、
言葉が頭の中で飛び交う収拾つかない時間を経ると、
見えてくるのはやはりそれなりに
真髄の
形v。
(←控えめなブイサイン^^;)どんでん返し・・考察の
果てに現れるのは、
パラドックス的大どんでん返しでもあります。
ハイブリッド心理学には、しばしばこの
「大どんでん返し」が出てきます。まあ
心の病というものが、
パラドックスつまり
奇妙な論理破綻を起こした感情の上に
成り立つものであり、その
克服解消はやはり
パラドックス的になるという
事情があります。
ちなみにこの
「大どんでん返し」そのものに
触れたものとして
『理論編下巻」の以下などあります。
2章 基本の姿勢と歩み-2 -「望み」と「自立」という最初の鍵-「未知への2つの大どんでん返し」があると。
一つは、我々は
絶望を経て真の望みに近づく存在なのだと。
もう一つは、
ゴールに現れると。
終章 人生の答え-3 -人間の真実・「神の国」から「放たれた野」へ-にそれを言う形になりますが、
「真の望み」は「自分」が抱くのではない。「自分」ではない「命」が抱くのだと。
まあこの
2つは
同じことの
2面ですね。
あと一つ出てくる
大どんでん返しが
5章 「未知」への大きな前進-2 -「否定価値の放棄」の扉を開ける-に出てきます。
ハイブリッド心理学に出てくる大どんでん返しといって
まず浮かんだのは
これでしたね。それは、
自分を破壊させる心の病みの核心の仕組みは、
実は自分自身への愛から派生したものだったという話。
「自己操縦心性」の
起源ですね。
これを感じ取ることは
極めて大きい。
「自分」と「外界現実」の逆転・・一方今回の
「心が良くなるとは」テーマで出てくる
大どんでん返しというのは、
「自分」が
「外界現実」に
向かうという
構図における
どんでん返しです。
それは、
「人生レベル感情」での
「外界現実への向かい方」の
姿勢です。
そこでは、
「自分」が「外界現実」になるのです。
そのようなものとしての「外界現実」に向かうのだと。
まあ
「自分」と
「外界現実」の
関係が
逆転するような
事態。
「姿勢の正誤」図の
正解の方は多少これを
表現しているんですけどね。
ではそこにおける、
向かう自分とは何か。それは
「“自分”を越えた自分」だという
言葉が、まずは
自然と出てきますね^^。
この辺で
スピリチュアリズムや
哲学宗教と
同じ山の頂になるという感じです。ただ
最後まで
ルートは
別。
エベレストに
ネパール側から
登るのと、
チベット側から
登るのと、という話。
などど
昨日は
ゲレンデに向かう
車中浮かべたりしていました^^。
雑感だけで
結構な長さになったため、これだけで
アップしておきましょう。
なんとか整理つきそうな感じで書くの
これからになりますが・・。
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