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このブログは、
心の健康人生の輝きを最大限に伸ばすための新しい心理学
「ハイブリッド人生心理学」を分かりやすい言葉で語るブログです。

ハイブリッド心理学があなたを変えるのではありません。
変化への力は、あなたの心の底にある「命」が持っています。
ハイブリッド心理学は、その力を解き放つための導きです。
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カテゴリ: 神になるのをやめる の記事一覧(作成順)

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神になるのをやめる-1
2つの道

「愛」「能力」という人生課題を前にして、私たちの心には、2つの道が用意されているようです。


一つは、「命の本来形」です。

それは「愛される愛」に別れを告げ、「能力」「愛」とは無関係なものとして、「愛」「自ら愛する愛」をありのままに開放するものとして、「望み」に向かって自分の全てを尽くしていく道です。
この歩みが心を豊かにするごとに、「命」がそれを求めて生まれ出る、「全ての人に愛される愛」「一人の相手と愛し愛される愛」という「2つの愛」は、自ずと果たされていき、この個人はやがて、もう求めることなく満たされているという、「心の成熟」へと向かっていきます。

これは「命」DNAつまり「本能」が導く道です。私たちが頭でどうこう考えるよりも。


私たちが頭で考えることで人生答えを出そうとし始めた時、もう一つの「人生を見失う道」が心に現れるようです。

それは「これが正しいという思考」の中で、「望みの感情」見えなくなり、代わりに「正しくないものへの怒り」が現れ、やがてその「怒り」自分自身に向かってくるという道です。
「怒り」「怖れ」へと変わり、「怖れ」から逃れようと、「愛される愛」にしがみ続けるものへと心が転じます。「能力」「愛されるための手段」となり、その内容そのものの意味を感じ取ることができなくなるにつれ、「能力」へと向かう努力ストレス空しさにおおわれ、なかなか前進することができず、「愛される愛」も得られない。つまり、全てを失う道へと続くものになってしまうのです。


「人生を見失う道」の歯車

なんでこんなことになってしまうのでしょうか。

沢山の歯車が関係しているようです。「結局これが原因」と一つに決めることはできるような問題では、ないらしい。
だから私はいつも、文章できるだけ短くしようと努めているのですが、上のように長い文章になってしまいます。

沢山の歯車が関係して、その一本の、幅が広くて誰でもそこに向かってしまいがちな道が、できるらしい。
本当の決め手の原因が見えた時、そうなるのも無理はないと感じられるようなものとして・・。


いずれにせよ、「人生を見失う道」では、こんな心の歯車が回るようです。
次の記事で書いていきましょう。

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神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-2
「人生を見失う道」への4つの心の歯車

「正しくないもの」そして「望ましくないもの」に向けた「怒り」が、やがて自分自身に降り注いでくる・・。

あるいは、その「怒り」にとりつかれ、見境いがなくなったかのように、嫌なもの駄目なもの叩き尽くそうとする衝動に駆られる・・。
嫌なもの駄目なものとは、自分であり、他人です。

そこに、私たちの心にとりついたかのようなものとして、「悪魔」という文字が見えてくるかのように・・。


そんな方向へと向かっていく「人生を見失う道」へと、まず4つの心の歯車が回るようです。

「心」の歯車です。私たちが普段意識する「心」における歯車です。
つまりこのあと、「心」とは少し違う、とても深い領域での歯車が出てきます。

まずは「心」の歯車です。


1.「望み」の未熟

「望みの感情」という人生の原動力そのものを見るならば、それはまず「未熟」なものから始まります。
これは仕方のないことです。というか、未熟から始まり成長へ、そして成熟へ向かうことは、「命」本質そのものだと思います。

実際のところ、私たちの心が「未熟」であるほど、「望み」は、「与えられる」という形のものになります。それはやはり自己中心的で、甘えて我がままな願望です。

「それがいけないのだ」という言い方は、ハイブリッド心理学ではしません^^;
それよりも、そうした願望で突っ走っても、かえって痛い目にあうことが多いというものです。それを体験の中で身をもって学ぶことで、より広い目で他人や社会を見ることができるようになります。そうした「体験から学ぶ」という視点を大切にしたいと思っています。


一方ここに、「心を病む」という問題がさしはさまれてくるごとに、未熟な「望み」は、さらに「すさんだ」色合いを帯びてしまいます。

それは人への敵意と憎しみという色合いです。これも程度の差こそあれ、現代人に避けられないものと、ハイブリッド心理学では考えています。
そこから、健康な心での「望み」に向かう、生きることの輝きへと回復することが、人間の心の真実の探求ともなるような問題として・・。


いずれにせよ、この「未熟」と、「心を病む」という問題の合わさった結果として、私たちの「望み」は、かなり典型的で限定された、美貌や才能や性格などの幸運に恵まれて人にちやほやされて幸せになれるというものに、なりがちです。
(参照:2/10『病んだ心から健康な心への道-2』


これは仕方のないことです。ここから始まる、成長と成熟への道が、あるのですから。

問題は、それを見失わせるものということに、なってくるでしょう。

神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-3・人間の魅力価値
ここで浮ぶテーマをひと通り。ちょっと長いです^^。


「人生を見失う道」への、4つの「心の歯車」の、最初のものを説明しました。

それは、私たちの「望み」が、「未熟」なものから始まるということです。「望みの未熟」です。

それはまず言って、「美貌や才能や性格などの幸運に恵まれて人にちやほやされて幸せになれる」というものになると話しました。
そして「それがいけない」ではないと言いました。


ちょっとこの話をさしはさんでおこうと思います。
「神になるのをやめる」という話と、やがて交差するような話です。ですので『島野自身の治癒過程を振り返って』シリーズとして書いてもいいのですが、引き続きとして。

それは、「人間の魅力価値」とは何か、という話です。


「人間の魅力価値」の3型

それを議論するつもりはありません。
私の場合はどうだったかという話です。そしてハイブリッド心理学の道を歩んでいる方が、そうであるものです。

そして人間とは、そんなものなのだろうという話です。
まありっぱな議論かも知れませんね^^;


キーワードだけ出すくらいの手短さで説明したいと思います。

私たちが追い求め、あるいは「命」に導かれて向かう、「人間としての魅力」というものが、3つの型としてあるように感じます。
私たちがそれを重要なものだと感じ考えることにおいて、その「魅力」「価値」として私たちに捉えられることになります。

つまり、「人間の魅力価値」としてです。
それが3つの型になる。


1.「アイドル型魅力」

「未熟な望み」が追い求めるものの、いわば王道(^^;)です。TVに出ている人たちです(←なんと安直な表現^^;)
美貌才能性格などの幸運に恵まれて人にちやほやされている人たちです。

これが「アイドル型魅力」です。

私たちの小中高時代には、学校に大抵、そうした人たちが少数います。

そうした恵まれた人たち対して感じる感情の中で、何かが屈折していきます。
何の屈折も感じないでいられた人は、少数派かも知れませんね。そうした恵まれた子供たち自身、あるいはよほど心が健康に育てられた子供、ということになるのでしょうか・・。


2.「見返し型魅力」

心の自由を失った狭い教室の中で、アイドルになれなかった私たちは(^^;)、何か屈折した感情の中で、アイドル型の魅力に素直に憧れるのとは少し違う、「人はこうでなければ」といった観念を抱いたように思います。私は抱きました。
この心の情景は3/7『「競争ではなく出会い」』でも書きました。

詳しくは省略するとして、それは自分の中のバラバラな内面を、究極の空想力(^^;)によって、パッチワークよろしくありえない組み合わせで貼り合わせ、弱点を美点であるかのように塗り替え、つじつまの合った一人の人間像へと作り上げた、「こうなれればいい自分」「こうならなければならない自分」であったように、感じます。

これが「見返し型魅力」です。

これを追い求め始めた時から、人生が不毛となったのです。

これは『「愛」と「能力」の人生課題』「人生見失いパターン」として説明しているものです。
「愛を求める感情が抑圧されたまま能力を求める感情が心の表面に現れる」というもの。
(とりあえずこれなど参照:3/16『「愛」と「能力」の人生課題-3』

私はそこから、『悲しみの彼方への旅』に書いたような、一度心の中で死ぬ治癒への道を、歩むことになりました。
そして別の世界が見えてきたわけです。


3.「人間的魅力」

「愛」「能力」の両方を一挙両得に得るような「アイドル型魅力」を追うのではなしに、「命の本来形」においてそれぞれに向かって歩むことが生み出す、「心の成長と成熟」の結果、かもし出されようになる、文字通りの「人間的魅力」です。

つまり、「愛」「能力」を、向かう気持ちにおいてはほとんど切り離した形で向かうものです。
「能力」はただ、本当に必要なものへ。「愛」はただ、「自ら愛する気持ち」を開放するものへ。

それが自分を「人間的魅力」へと運んでくれることを、その時その人は、知ることはできません。

それを知って、それを意識して、目当てにして行動するようになった時、実は2番目不毛パターンになっています。まあこうした心理学を学ぶ中で、多少そうした心のループが起きるのは仕方のないことです。

「人間的魅力」を目当てにするのは大いに結構です。目当てにしても得られないことを知っておけばいいでしょう。実際に得るのは、目当てにしたのとは全く別の形でです。


「望み」への回帰

では2番目不毛パターンから、やがて「人間的魅力」を得る方向であろう、心の成長と成熟へと復帰するためには、どうしたらいいか。


ハイブリッド心理学の実践の全体の話になります^^。

それはこの文脈で言うなら、いまさら「アイドル型」に向かおうとしてもちょっと無理だと思われる状況を踏まえつつ(^^;)、今目の前にある人生の歩みに、「愛」「能力」への本来の向かい方を学びながら、向かうことです。

できるのは、ただそれだけです。


一方で、「アイドル型」から「見返し型」へと目線が転じた、過去の自分の心の軌跡をたどってみるのがいいでしょう。
あるいは、ハイブリッド心理学の実践の中で、自然と、「命」がそれを行なわせることに、なるのではないかと思います。

それは最初、苦痛に満ちた回想になるかも知れません。
それが苦痛に満ちた回想あることをやめるのは、自分自身が「アイドル型」ではない「人間的魅力」を、持ち始めているのを自覚し始めた頃になるでしょう。


自分がまだ人間的魅力を得ていることを感じられないまま、「見返し型」を鎧のように追い求めた内側にある、痛みに満ちた裸の心で歩んでいく、しばらくの時期という課題が、心の状態の深刻度に応じて出てくることになります。

私はその苦しみを知っているので、気休めが言えません。ただ、そこで苦しみが深いほど、その先に見出す光の輝きが大きくなるであろうことを伝えられるだけです。

その苦しみの期間を、いかに短く、そして歩みやすいものにできるかが、ハイブリッド心理学の、そして私の課題です。
「神になるのをやめる」とはどういうことなのかを説明することが、恐らくその中でも最大の役割を果たすものになるのでは、と感じています。


負けを認められる時・・

いずれにせよ、自分が「見返し型」に向かった過去が、苦痛に満ちた回想ではなくなった時、「アイドル型」がどう見えるようになるのかも、ちょっと触れておこうと思います。

それを知っておくのは、きっと無駄ではないでしょう。


その時、「アイドル型」が、やはり素の心が一番惹かれるものであること、そこにおいて「自分が負け」であったことを、認められるようになるのでは、と感じています。

そこには、別の「人間的魅力」という世界があるという支えがあってという面もあるでしょう。
一方でそれは、それとは別の話として、やはり魅力たっぷりの「アイドル型」への憧れを、心の中で開放できる時だと思います。


つい先日、長くメール相談をしていた女性から、そんな心境変化の節目に来ている様子をつづった言葉が来ました。抜粋して紹介しておきます。

羨望を感じたのは小学校とか中学校で、クラスの中心になるような女の子です。
たくさんの人が彼女らの周りに集まっているのがうらやましく思います。謙虚で控えめということが最も重要な価値であった私にとってはただ何故彼女らに人が集まるのかよく理解できていなかったと思います。

彼女らの魅力はかわいいということです。それは容姿が可愛かったりもありますが、子供の感性で足が早かったらカッコいい的な所で運動神経がよかったり勉強ができたりなど複合的に優れていることをかわいいとして捉えて人を引き付けているように思います。

彼女らと同じように人に集まってほしいのならその子たちのマネをするのが手っ取り早いし一番順当だと思います。でも、それをするのも悔しかったし、自分に足りない魅力を感じるのも嫌でした。彼女らは私を好いてはくれなかったからです。負け惜しみのように、彼女らの魅力に引き付けられた人々は謙虚な私にこそ集まるべきだと思っていました。自分も魅かれていることを認めるもんかと躍起になっていました。

思いだしていくと、何だかクラスの中心でみんなと一丸になって何かを成し遂げていく様子は、とてもきらきらしていたと思うんですね。私もそこに居たかったなあと。

「私もそこに居たかったなあ」という部分が、「愛を求める感情が抑圧」されていたものが回復した部分にあたります。

「愛を求める感情の抑圧」を解除するとはどんなことなのかと、疑問を感じた方もおられると思いますが、まずはそういうものになります。
これ自体はもう意識して行うものではなく、歩みの中で自然と訪れるものです。


「愛されない」ことは「屈辱」ではない

そのメールでの「彼女らは私を好いてはくれなかった」に対して、私はこんなコメントを返しておきました。

そのうちブログで書こうと思っていますが、我々が抱く「人の魅力」は、今回書いてもらった小中時代のように、「アイドル型魅力」のもので始まります。
それについては、「負けを認めてしまう」のが得策と、今ではしみじみ感じますね。対抗心なんかより、素直な憧れに戻してしまうことです。

そこでネックになったのが、「愛されないこと=軽蔑されること」という感覚だったという話になるでしょう。実際はそうではない。ただ彼彼女らは別の方を向いていたのだ、と。ただ、自分の方ではなく。
そこに自分が感じる気持ちを、まずありのままに開放することです。

幼少期において実際に酷い扱い回りから受けた体験を持つにつれて、この感覚が原因となる心の屈折激しくなってしまいます。

それを解くのは、「自分が愛されなかった」のは、自分が「この世界において存在が否定されるべき者」などではなく、親や回りが病んでいたということ、あるいは、自分自身が自暴自棄な気持ちの中で自らそうさせた部分があったということを、自覚できる時になる。
これが心理学からは言えることです。

それはいずれも、にせよ自分にせよ、神のように完成された存在ではなく、不完全な人間なのだということを、受け入れることができた時に、なるでしょう。


最後に回想を一つ追加ですが、私の小中時代一番のアイドル少年だった同窓生は、2年前だったかガンで亡くなりました。よりによって一番人気だった彼が・・とその時は人生の皮肉のようなものを感じた次第です。
かたやの方は、バカは風邪も引かない(^^;)的な能天気な健康で、100歳までは生きたいと思っています。
人生は短く長い・・と、まさに感じます。


神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-4・自己の理想像
「人生を見失う道」への、4つの「心の歯車」の続きを説明しましょう。


1つ目の歯車は、「未熟な望み」でした。「美貌や才能や性格などの幸運に恵まれて人にちやほやされて幸せになれる」というものです。

これ自体は、それほど人生の道をそらせるものではありません。道をそらせるものというより、「未熟」から始まる「成長」の、スタートラインです。
その「未熟な望み」「現実」とのギャップは、確かにスタートラインの位置困難度になるかも知れません。でも皆そんなもんです(←安直表現^^;)


続きです。


2.「なりたい自分」「なるべき自分」の自己理想像

これもokです。というかスタートラインとして、「未熟な望み」が叶えられるような自分の理想像を抱く中で、私たちの人生は始まります。

その先の「生きにくさ」ゆえに、人は得てして「こんな自己理想像など捨ててしまうのが正しい」と考えたりします。
それは人生を空虚にするだけの効果をもちます。


「なりたい自分」「なるべき自分」自己理想像の内容そのものに、確かに多少の歪みが入り込んでしまうのがスタートラインです。

それは先の記事で書いた「人間の魅力価値の3型」の、「アイドル型」が道半ばになった部分(^^;)が「見返し型」に埋められたようなもの、とでも言えるかも知れません。
いずれにせよそれは、「こんな自分になれれば人は自分になびいてくれるはず」といった、我田引水的な自己理想像でしょう。

実はそれが、その人のいちるの望みとなってその人を支えると同時に、その人を圧迫するものに、やがてその理想像通りになれない自分を叩いて痛めつけることへと、追いつめていくものになるのです。


そうした空想の誤りを、実際の体験の中で、身をもって学んでいくのが良いことです。

そのために、ハイブリッド心理学では外面行動向けの、さまざまな知恵ノウハウを整理しています。

それは簡潔にいえば、私たちの人間関係社会行動というのは、そうした「未熟な望み」の中で描かれる、特別に人より秀でた容貌や才能や性格といったものの圧倒力によって動くのではなく(もちろんそうした側面もありますが)、もっと地道で誠実な、誰もが果たすことのできる役割によって築かれているものであることを、学んでいくことだと言えるでしょう。


それは「こうなれれば」「ならなければ」と自分を支えると同時に圧迫していた理想像に比べて、「現実の自分」に、「失意」と同時に「安心」を得る体験の積み重ねとも、言えます。

やがてそれが、「失意」の側面が薄れていくとともに、「安心」がさらに「自信」へと変化していく歩みです。


ですから、スタートライン自己理想像中身の良し悪しというのは、あまり問題ではないのです。

問題は、そこからいかに自分を成長に導く姿勢の中で、その内容切磋琢磨(せっさたくま。材料を加工する作業の事から、自分を磨くという意味)していけるかが重要になります。

ここでも問題は、それを妨げるものということになります。
それは一言でいえば、自己の理想像が、「成長への体験」を否定するほど硬直したものになってしまうことです。「こうでなければ一切許さない」というものへと。


このあとの歯車が、次第にそうした問題を生み出すものになってきます。

神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-5・価値観
「未熟な望み」
そしてそれが叶えられるような「自己理想像」を抱くこと。
これ自体は「人生を見失わせるもの」ではなく、スタートラインとして回り続ける歯車です。

3つ目の歯車によって、人生の生き方大きく違ってきます。


3.「受け身の価値観」

「未熟な望み」「自己理想像」に続く、3つ目の歯車は、「価値観」です。

問題となるのは、「受け身の価値観」です。


「受け身意識」のことではなく、「受け身の価値観」です。
受け身にものごとが良くなることを、自分から立って歩くことで良くなることよりも望ましいことだと、価値の重みを与えてしまう感覚であり思考です。

まあちょっと考えても、自分から立って歩くことで良くなるよりも、受け身にものごとが良くなる方が、価値が高い、自分はそうありたいと感じ考えるようだと、人生どんどん道をそれてしまいますね。
自分から前に進むことなく受け身でいて人生が良くなるような都合の良いことは、あまりないのが「現実」だからです。


受け身でいることを重視するこの価値観では、「幸福」、さらに「自分」が、受け身に作られるものと考えることになります。
「幸福」他人と社会から、あるいは「運」や「神」から与えられる
「自分」というものは人との関係によって作られる。子供の心は親によって大きく決められる


道徳思考の罠

恐るべきは、そうした「受け身の価値観」受け身でいることが価値が高いことだという感覚が、「正しさ」という観念の下に、私たちに植えつけられることです。

「正しければ幸せになるべき」「正しければ愛されるべき」といった、道徳的な思考です。
これはその通りではないか!とお感じの方も多いかも知れませんが、「正しい」とは「何が何にとってどのように正しいか」という内容を明確にしないと、意味のない話になってきます。

「1たす1が2であることが正しければ幸せになるべき」なんて言っても、あまり意味のある話ではありませんね。ハハ^^;


しかし実はそのように、中身が不明瞭な「正しさ」の感覚を、私たちは抱いているように感じます。

それはひいては、私たちが、自分自身の「幸福」を、中身が不明瞭なものに追いすがるように求めていることを、意味しているのかも知れません。
さらにそれはひいては、私たちが、自分自身の「幸福」を、中身が不明瞭なものによって妨げられ破壊されるという、中身が不明瞭な「怖れ」におおわれるようになることを、意味しているのかも知れません。

ここに、「人生を見失う道」に開いた、人生を見失う穴への入り口がある。そんなイメ-ジを感じます。

「望みの感情」を見失い、ただ「怒り」「怖れ」ばかりを自分の心の中に生み出していく、そんな心の落とし穴への・・。


「自己能動の価値観」

「受け身の価値観」の対照となるものを、「自己能動の価値観」と呼んでおきましょう。

受け身に与えられることよりも、自分自身から動いて得ることの方が、価値が高い、自分はそうありたいと感じ考えることです。

なぜ価値が高いか。私自身の感覚で言えば、そのほうが心が自由でのびのびして楽しそうだと感じるという印象からだと言えると思います。
受け身に与えられるというのは、ちょっと窮屈で、あまりありがたくないという印象。まあ自分で頑張っても得られないものは、受け身にあわよくば得られれば・・という空想はやはり時に浮ぶとして^^;


一方、「受け身の価値観」の方は、労せずして手に入れるという、魔法のような力へのプライドの感覚によって、人の心をくすぐると言えるのかも知れません。
その行き着く先は、世界の全体が自分に尽くすためにある、自分こそが神だと感じるという、病んだ心の世界へと・・。


「自己能動の価値観」は、心の健康と成長へとまっすぐに向く価値観です。
「未熟」「心を病む」という問題を合わせもったスタートラインからの歩みへの、最も基本的な原動力になるものとして、ぜひじっくり理解し、心をなじませていくのが良いでしょう。


「受け身の自己像」と「自己能動の自己像」

「受け身の価値観」「自己能動の価値観」の違いは、「受け身の自己像」「自己能動の自己像」の違いに、そのままつながります。


「受け身の価値観」でいると、人にどう見られどう扱われるかかを「自分」として捉えるようになります。
これは当然、人との関係の中で、相手の行動や態度が変わるたびに、自分で感じる「自分」までもが変わってしまうので、感情極めて揺らぎやすく不安定なものになってしまいます。

これが「受け身の自己像」です。

この行き着く先は、人に良く見られないことが、「自分」というものを駄目にされ破滅させられることとイコールと感じるという心理になります。
その結果、自己像を維持するためには自分を良く見ない相手を殺す、といった事件が起きやすいのです。注意しましょー。(←軽すぎる言葉^^;)


「自己能動の自己像」では、自分が何を望みどう行動するかを、「自分」と捉えます。

人との関係の中で、相手の行動や態度が変われば、それはやはり気分を揺るがせるものです。でも「自分」そのものはしっかり自分で持っていますので、話が全然違います。
そこから、揺れ動く相手の行動よりうまく対処できるようになり、心が安定していく、成長への道が始まります。


「価値観の検討」の思考作業

「価値観」というのは、変えることが基本的にとても難しいものです。

それはさまざまな言葉で、私たちの心に植えつけられています。
例えば、「女の子は人に愛されるのが幸せ」「他人にバカにされる人間にだけはなるな」。ともに、受け身の価値観の言葉です。

これが自己能動の価値観だとどうなるか・・は、ここでは書かないでいいでしょう。(?スペースの都合もあり^^;)
ぜひ考えてみて下さい。


「価値観の検討」は、4段階の思考作業を必要とすると言えるでしょう。
1)価値観の種類をまず頭で憶える
2)自分の日常思考がどんな価値観であるかを把握する
3)違う価値観だとそれがどんな思考になるかをシミュレーションする
4)実際それが自分の本心から取ることができるものかを検討する

ここで最後に、本心として取れなければ、仕方がありません。まだ元の価値観で生きているということです。まずはそれをしっかり把握することから始めます。

これを人生を通して、問い続けていくのです。


一度検討してみて、「自己能動」には自分がなれていないと自覚したら、それがやはりスタートラインです。

ハイブリッド心理学四方八方からの取り組みの中で、一つの角度からの取り組みが、まったく関係ないような問題での自分の感じ方を、見えないつながりの中で変化させていきます。

そして再び自分の「価値観」に向き合った時、違う感じ方ができるようになり始めている、未知の自分の訪れを、やがて知ることになるでしょう。


そうした「価値観の検討」のためには、幅広い視点から沢山のことがらについての考え方に触れることが重要になってきます。
ハイブリッド心理学はそのためにあります。(まだならぜひ買って~^^;)


このブログでは引き続き、ここで説明した2つの対照的な「価値観」重要な歯車となる、「人生を見失う道」、およびそこからの「心の成長への道」への回復の、大まかな流れを説明していきます。

神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-6・怒り処罰
前回の記事で書いた、「女の子は人に愛されるのが幸せ」「他人にバカにされる人間にだけはなるな」を、私だったらどう変えるか。
これをちょっと書いておきましょう。
まこんなかと。「女の子も野生持たなきゃー」「人をバカにする人がバカ」。半分ジョークですね^^;



「未熟な望み」
それが叶えられるような「自己理想像」。ここまでは人生のスタートラインです。
「受け身の価値観」。ここで人生が道をそれ始めてしまいます。自分から前に歩くという心の姿勢と視野を失い「自分」というものを自分から築いていくことをしないというものへ。

そこで4つ目の歯車が加わって、人生まったくあらぬ方向へと迷うものになってしまいます。糸が切れた凧のように。


4..「正しくないもの」「望ましくないもの」への怒り処罰

4つ目の歯車とは、「怒り処罰」によって、ものごとに対処しようとする心の姿勢です。
「それでは駄目だ」駄目出しをして、叩いて痛みを与えることで、変えようとする姿勢です。心の中で。あるいは実際の言葉で。あるいは、実際の身体的な暴力で。


そうした「怒り処罰」を向ける対象とは、「正しくないもの」「望ましくないもの」です。

それは先の「自己理想像」通りにすぐなれていない自分であり、自分を自己理想像通りにするお膳立てや支えをしてくれない他人であり社会であり世界であり、そして人生そのものです。
まるで自分が全てへの審判を下す、「神」であるかのように。

そして最後に、そのように怒ることだけしかできなくなった自分に、怒りの駄目出しをするのです。


この「怒り処罰」という心の動きは、私たちが、親から子子から孫へと受け継いでいく、あまりにも自動的な行動として植えつけられます。
「叱る」ということとして。
「正しければ怒るのが当たり前」だとして。

そうして自分他人怒り叩き、壊していきます。するとそれはさらに、自分自身が求めた望ましい姿から、遠ざかってしまいます。
そしてさらに怒るのです。


そこには何か、人間の心に仕組まれた、コンピューターのプログラムミスのようなものがあるという印象を、私は感じています。

おそらくそれが、「悪魔」という言葉によって表現されるものとして・・。


人生を歩む道を知らず・・

ここで起きている問題とは、「怒り」という感情の、心身の健康への有害性のみならず、「ものごとが良くなる」ということへの、何か根本的な無知か勘違いのようなもののような印象を、私は感じています。

むろん、私自身がかつてそのの中にいたこととして・・。


そこには、「破壊」の行動様式を、「ものごとを良くする」ための方法だと考える、根本的な未熟な思考があります。
(「破壊の行動様式」については参照:1/17『「建設」の行動様式』

正しくないもの、望ましくないものを叩いて壊して消滅させれば、望ましいものが降ってくる、あるいは生えてくるとでも感じているのです。
もちろん心の表面では、そんなことなど考えていないが・・という意識の下で。
まるで、私たちの体が、「望ましくないものを破壊すれば望ましいものが自然と生えてくるべき世界」から生まれたかのように。


私はこれを「破壊幻想」と呼んでいます。

それが物語りになった典型として、一斉を風靡したマンガ「デスノート」があります。

極悪人と犯罪者を殺していけば、理想の世界が生まれるという、未熟な発想(^^;)です。まあどこが未熟かと言うと、望ましくないものを破壊消滅させるとことの有益性は否定しませんが、では望ましいものはどう生み出されるのか具体的な過程への視点を、それは全く欠いていることだとここでは書いておきましょう。

まあ、ワタシは「壊す」役割、「作る」役割は誰か別の人、という話になるのでしょう・・。

私は「デスノート」を見ておらずその結末は知りませんが、そうしたストーリーがお決まりのように行き着くのは、その「デスノート」に最後に書かれる名前とは、自分になるというものです。
悪人を殺すことが快楽となり、やがて自分自身が破壊すべき人間の姿になったと感じるようになる、自分の名前です。


「否定する価値」の感性

このように、正しくないもの望ましくないものを前にして、怒り処罰を向けるという心の行為は、単にそれがそうした有害なものを消滅させるという消極的な価値だけではなく、望ましいものを生み出す魔法であるかのような、積極的な幻想の価値を、私たちの心の極めて深いところに、その根を下ろしているように感じられます。

それはもう「思考」「感情」のレベルを超えて、「感性」のレベルでおきていることです。

それをここでは、「否定する価値の感性」と呼んでおきましょう。本では「否定価値感覚」などと呼んだりもしています。


問題はその根深さです。

ハイブリッド心理学の実践さえもが、そのにはまりがちです。ハイブリッド心理学を理解して、すぐその通りに変われない自分は駄目だと、自分への怒りを感じたりしてしまったりする方が、少なくありません。

この「否定する価値」の感性を、心の底から捨て去ることが、ハイブリッド心理学の実践の、ひとまずの目標達成とも言えるほどの、大きな道しるべになります。

これを「否定価値の放棄」と呼んでいます。


そう聞いて、「否定する価値の感性」を今すぐ捨てられない自分は駄目だ・・と感じるというが、まさにこれが生み出すものになるわけです^^;


「人生を見失う道」総括し、抜け出しへと視線を転じましょう。

神になるのをやめる |   コメント(0)
神になるのをやめる-7・魂の信仰
最後のつながり

さて、「愛」「能力」人生課題を前にして、「命の本来形」からそれてしまう、「人生を見失う道」心の歯車の説明をしてきました。

未熟な望み。
自己の理想像。
受け身の価値観。
怒り処罰。

この4つです。

そこで最後の「怒り処罰」の底に、「否定する価値」の感性というものが流れていることまでを指摘しました。


ここで正真正銘、心の未熟と心を病むことから、心の成長と成熟に向かうまでの流れについて、「最後のつながり」だけを残した全てを出しました。

実は今までの話の流れのどれもが、それを残して完結できていない状況になります。

『心の闇との決別』の重要なものとして話し始めた、「怒りの放棄」がそうです。

それを受け説明し始めた、「病んだ心から健康な心への道」で、「愛への望み」に向かう「真実と嘘の錯綜」からの抜け出しを決定するものが、まだ出していません。


そして、愛と能力の人生課題を前にして、「人生を見失う道」を決定づける「怒り処罰」を説明しました。

これを心の底から捨てたいのです。そして愛と能力に向かう、命の本来形へと復帰したいのです。
しかし、ここまでの話だけでは、それはできません。

どういうことかというと、こうしてお話ししてきたのは、私たちが心の表面で感じ考えることについての話です。
まあ一言でいえば、自分が「感じること」「考えること」として直接意識できることです。

それでは終わらないということです。私達の心に、「感じること」「考えること」として直接意識できるのよりも、もっと深い領域があり、それが最後のつながり部分を決定づけているというこです。


「魂の信仰」の領域

それをこのブログでは、「魂の信仰」と呼ぼうと思います。

心の表面「思考」「感情」というものが動き、それよりも深いところで、「価値観」という心の方向づけが働いています。

そのさらに深いところに、「信仰」方向づけが働いている、ということです。


具体的に言えば、こんなテーマが、くりひろげられるということです。

心の表面での「思考」「感情」は、「愛」「能力」をめぐる具体的な話。

「価値観」は、受け身に行くか自己能動で行くかといった、自分自身のあり方の話。

「信仰」は、「人知を超えたもの」「神」といったテーマへの考え方や受けとめ方が、テーマになります。


この「信仰」が結局、最後のつながり部分を、ひいては全ての流れを、決定づけるらしい。

なら最初にそれを出してくれれば・・と思われる向きもあるかも知れませんが、最初に「信仰の話」と出すと、あまりに具体性がなく、ハイブリッド心理学本来の内容とはおおよそ違う印象を受け取られてしまいかねないと感じる面もあります。

また、それを具体的な「選択」として説明するためにも、それを最後のつながりとして残した全部をまず説明してから、が良いように感じています。

それはまた、「実践の進み方」としても、そのような流れで、検討と自分への向き合いが進むという形になるのではと。これについては後でまたまとめたいと思います。


「魂の信仰」と「怖れの克服」

いずれにせよ、ハイブリッド心理学では、この深い領域について、単に「信仰」という言葉では「宗教信仰のことか?」というのを彷彿とさせる嫌いがありますので、極力「宗教信仰」とは違う話であるのが感じられるよう、「魂の信仰」と呼んでおこうかと。

スピリチュアルではあります。まあ「宗教信仰」というのは、案外スピリチュアルじゃないですね。お金がらみとか^^;

『取り組み実践の全体』の図にも「魂の精神世界」というのを示した通り、ハイブリッド心理学には、かなりスピリチュアルと重なる領域があります。


「人知を超えたもの」
、そして「神」について、どう考えるかです。それが決定的な重みを持っています。

なぜなら、私たちは「愛」「能力」という人生課題を前にして、望む理想通りになりえないことを前に、「怖れ」を抱くからです。
自分には分からないこと、自分にはできないことが、沢山あるからです。
私たち人間は、不完全な存在だからです。

だから、「怖れ」から逃れようとする先に、必ず、「分からないことできないこと」への答えを求めようとするのです。

それが道を誤った時、人生の全てを、見失い始めるのです。


本当は「信仰」という言葉を使いたくないんですけどね。それだけ、この言葉は現代社会歪められている、さらに言ってしまえば、汚れていると思います。
でも他に該当する言葉が見あたらず。

ですからとりあえず「魂の信仰」という言葉で。


それは同時に、私たちのに、普段自分の「心」と感じているのよりも、もっと深いものがあることを示すものです。
ハイブリッド心理学「魂」と呼んでいるものです。


自分自身の「魂」との対話が、ここから必要になります。

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